作品か行
「瀬戸内さんを羨ましいと思うのは、ぼくが絶対逢えない歴史的作家にほとんど逢っていることです」 p.38
「女は職人にはなれない――。こうやって精進しても、技が日の目を見ることもない。そりゃああたしは好きでやってることだもの、なんの不満もないけれど」 p.58
木枯らしはうなるように、外の闇を切りさいている。 おはいり、とかすれた声にうながされ、お凜は襖障子をあけた。 p.3
皆、不味いものをこの世で一番美味しい、とまで思えた「うっとり」していた子供時代が、懐かしいのである。 そして、お酒の力を借りないと、馬鹿らしい一言に大笑いすることが出来なくなってしまった大人の自分を、少しのセンチメントをもって、思い返すので…
きりこは、ぶすである。 p.5
「無数の可能性があちこちに伸びている時の河をあてもなく流れている今が、楽しくて仕方ないんだよ。キミたちと一緒にね」 p.162(「天蚕教主」より)
まがりなりにも三十数年を生きてきた今の私たちは知っている。答えはひとつじゃないことを。結婚に生きても仕事に生きても、子供がいてもいなくても、離婚をしてもしなくても、セックスに愛があろうとなかろうと、そんなことは別段、人間の幸せとは関係がな…
「浮かぶ学校なら、なんだかファンタジーだけど、沈む学校なんて笑えない」 「悲劇だよ。悲しすぎる」 p.67 私は、熊の形をしたビンをしっかりと持って、学校と共に、少しづつ沈んでいく井出さんの姿を想像した。お母さんの思いがこもったビンを片手に、彼…
「だから熟女って三十代から上を全部含んでいるから、豊かな海というわけ」 「海なんですか」 「だって、艶子さんはそう言ったんだもの。しょうがないでしょ」 p.144 人物紹介しただけで終わってしまって、これから物語が始まるんじゃないかという印象を受…
しゅぱーっと、乾いた音がして急行・中央林間行きが三軒茶屋で停まった。扉ががーっと開く。もう十時近いというのに、この駅で降りる人はいつも多い。朝も昼も電車は込んでいて、空いている時がない。 p.3
「悠ならできるよ。どこへでも行ける。きみは、好きなように生きられるひとだよ」 彼の言葉は、悠の耳に悲しく響いた。今は一緒にいられるけど、いつか、僕たちは離れ離れになるんだよ、と告げられたようで。そして、それはその通りなのだろう。おそらく、覚…
私はなぜ、守り続けるのだろう。 そのことに、疑念を持ってはならない。 それが、私の存在意義でもあるからだ。 疑念は心を乱し、動きを妨げる。 いつ、どんな形で訪れるかも知れぬ「その時」に、一片の迷いもなく自らの職務を遂行するために。私は守り続け…
わたしは二十二歳のいまだ処女だ。しかし処女という言葉にはもはや罵倒としての機能しかないような気もするので、よろしければ童貞の女ということにしておいてほしい。やる気と根気と心意気と色気に欠ける童貞の女ということに、だれでもいいから何か別の言…
煙たい味のする雨が下唇に落ちて、わたしは舌うちをした。 p.3 なぜわたしは雨が降る廃車置場で、イノギさんが10年ほど前になくした自転車の鍵を探しているのか。イノギさんとの出会いから探すことになった経緯までを描く小説。
「同姓同名の人に会うのって初めて」 「わたしも」 「わあ。こういう顔をしているんだ」 「こういう顔かあ」 「和美って名前、わたし嫌いなんだよね」 「同じ同じ。わたしも嫌い」 「人に説明するのは簡単だけど、いい名前だねとはいってもらえないよね」 「…
子どものころ、わたしには特別な力があった。走っている車を一瞬のうちにとめることができたのだ。 p.105
わたしを恋しく思う気持ちが電話をひとこえ鳴らすのだ。カズミ、どうしてる。お前と別れて俺は寂しいよ。時々無性に会いたくなる。お前を強く抱きしめたくなる。でも、俺にそんなことをいう資格はないよな。どこかで偶然会わないものかな。そしたら俺たちも…
ショッキングピンクの塀の前までくると急に切なさがこみあげてきた。立ち止まって塀をなでながらあなたのことを考える。あなたはきょうこの塀にさわっただろうか。きのうやおとといはどうだろう。あなたのぬくもりが残っていないか、手をすべらせて確かめる…
価値が低いなら私は安さで勝負するしかない。 私は誰よりも私を安く売るんだ。そして誰よりも喜ばれて見せるんだ。女の子達の甲高い笑い声が鳴り響く教室の中で私は、そう強く、胸に誓っていた。 p.133 濃度の薄い絶頂が、文字を書いている間ずっと、下腹の…
私が“化け物”だとして、それはある日突然そうなったのか。少しずつ変わっていったというならその変化はいつ、どのように始まったのか……考えれば考えるほど、脳は頭蓋骨から少しずつ体の内へと溶け出していき、その中を漂いながら、ぼやけた視界で必死に宙に…
「私は、私として生まれてきて、私にしかできない感じ方と考え方を持っていて、ただそのことだけでもう、いいと思うの。決して悲しくはないよ。」 p.67 「だって、なによりも今目の前のことが大事だもの。そこが落ち着いていれば、あとは気にならないの、気…
私が昇一と最後に会ったのはふたりが小学校に上がる直前くらいのときだっただろうか。 p.5
「そりゃ、骨折なんかと違って、心の傷ってのは簡単には治らないさ。もしかしたら、一生そのまんまかもしれない。それでも、皆なんとかだましだまし、生きてるんだよ。そういう痛みとか苦しみとか、そういうもん、体の奥のまた奥のほうに隠してさ」 「……」 …
「だから、まあ、つまりはうまく納まったということだ」 p.278
千蔭は、しばらくぽかんとしていた。何を言われたのか、すぐにはわからないようだ。 千蔭の額から汗が噴き出した。あわてて、手ぬぐいで拭っている。 p.161 「ろくには色だの恋だのというものはわかりませぬ」 おろくは、巴之丞にも言ったことばを、もう一…
年老いた女は、もはや爪の先ほどの大きさになった、かつての熱い大輪の花弁を愛しく思う。恋は池の底に溜まる泥のように形を持たないけれど、いつまでもそこに留まりつづけ、消えることはない。 かきつばたの夕闇はいつしか去りゆき、女は遠く夜の帳で、男の…
絶望したのよ、あなたには……。 眠れない夜、耳に響くときと同じように――蛍みたいに僕を囲んでふわふわと浮かび、そのせいで眠れないのだと最初は考えているが、やがて子守歌さながらに、それらこそが僕を眠らせるものとなる――、どの女の声もやさしげだった。…
泣くもんか、と思って、こらえた。いつの間にか自分が雨の写真を撮らなくなっていたことに、その時わたしは、はじめて気がついたのだった。 p.241 雨の日の風景写真を撮るのが趣味の私。偶然喫茶店「ロマン」に勤める赤いくちべにをひいたおばさんあけみと…
山崎くんは、違わないひとなんだ。わたしは思っていた。山崎くんは、違わないひと。きっと山崎くんの家族も、違わないひとたち。わたしの家族も、そう。そして、わたし自身も。 違っていた。佐羽は。南龍之介は、どうだったのか。ほんとうのところは、知らな…
渉が、いけない。渉が、ぜったいに、いけない。 庸子さんのことを思って、僕は少し泣いた。庸子さんは掃除が上手だった。よく掃除の手伝いをさせられた。庸子さんの掃除を手伝うのが、僕は、大好きだった。 p.40 「女って、どうやったら機嫌をなおすわけ」…