作家あ行

東直子『薬屋のタバサ』新潮社

「だけどさ、死んじまうからこそ、自分のかたちを残したがるんじゃないかと思ってね。残したがってるんだから、こうして自分が見つけたものくらいは、集めてるんだよ。ほうっておいたら、踏みつぶされたり、吹き飛ばされたり、影も形もなくなっちゃうだろう…

東直子『薬屋のタバサ』新潮社

何もかも、申しわけありませんでした。 わたしは、また、つぶやく。 p.3

赤染晶子『うつつ・うつら』文藝春秋

ここでは空気も風も求めてはいけない。この街の人たちの静かな呼吸でなければならない。これを知らない芸人は窒息する。もう堪えられなくなって走って逃げる。うつつもそぞろも何人もの芸人がこの舞台から逃げるのを見てきた。二人は思っている。たまたま、…

青山七恵『やさしいため息』河出書房新社

風太のノートなど、もういらない。自分の生活がどう記録されようと、もう興味がない。本当の人生はつれなくて、安全だけども不毛だ。 p.114 「でも、久々に会っても、ちゃんと自分から人生をややこしくして面倒なことをやってるまどかは、なんか感動的だっ…

青柳いづみこ『六本指のゴルトベルク』岩波書店

『ジャン・クリストフ』は音楽家を主人公にした音楽小説だが、同時に、音楽現象というものを見事に言語化した作品でもある。クラシックはよくわからないから、とか長くてむずかしそうだから(たしかに……)という理由でこの書を遠ざけるのは、人類がつくりだ…

大島真寿美『すりばちの底にあるというボタン』講談社

晴人は、すぐそばにいる、薫子や雪乃や邦彦と知り合い、いっしょに歩いた、このすりばち団地のことを思っていた。ジャングルジムや、坂道。毎朝、さがしたボタン。作戦会議。お父さんとは別れてしまったけれど、ぼくはここで、友だちをみつけた。だから、こ…

大島真寿美『すりばちの底にあるというボタン』講談社

すりばち団地は、すりばち状の敷地に建っているから、ゆるい坂道や階段がやたら多い。 平坦だと思って歩き出した道もいつのまにか坂道になっていたりする。 p.5

稲葉真弓「光の沼」新潮社(『海松』収録)

この土地の古い言葉で「食べなさい、飲みなさい、走りなさい、飛びなさい」という意味の<聲>が、地底とも天空ともつかぬ場所から聞こえてくる。楽しいことのすべてを、こちらへ託すような<聲>。同時にそれは、あっという間に五十数年を過ごしてしまった…

稲葉真弓「海松」新潮社(『海松』収録)

ずっとずっと仕事をしてきたのだ。食べるために不健康な毎日を送ってきた。生きるために不健康を選ぶのは矛盾じゃないか。だからここではなにもしたくない。無意味な暮らしがいい、空っぽの日々がいいといつも思う。 p.19 そんな時間が私にもあった。私の中…

乾ルカ『プロメテウスの涙』文藝春秋

生きるということは、ただそれだけで尊いのだろうか。それがどんな性質のものであっても、心臓が動いて、体温があればそれでいいのか。意識もはっきりしていれば、なおいいのか。 もはや苦痛しかない世界に何を見出せばいいというのだ。 p.160 リーダビリテ…

大島真寿美『三人姉妹』新潮社

あのね、夜中に一人で車で走ってると、あたしは自由だ、どこまでも自由だ、って気がしてくるの。これって不思議よ。どんなにへこまされている時だって、絶体絶命の時だって、あたしは壊されない、壊れてなんかやるもんか、って強く思えるの。このままどこま…

生田紗代「魔女の仕事」(『ぬかるみに注意』収録)講談社

似たような話を聞くたびに、友人が恋人に変わるその瞬間をこの目で見たい、といつも思う。さなぎが蝶に生まれ変わるように、そこに劇的な変化はあるのかないのか。 p.109 私は思春期が終わる頃には、自分の母親を理解しようとする努力をやめた。愛しく不可…

生田紗代「カノジョの飴」(『ぬかるみに注意』収録)講談社

「浮かぶ学校なら、なんだかファンタジーだけど、沈む学校なんて笑えない」 「悲劇だよ。悲しすぎる」 p.67 私は、熊の形をしたビンをしっかりと持って、学校と共に、少しづつ沈んでいく井出さんの姿を想像した。お母さんの思いがこもったビンを片手に、彼…

生田紗代「ぬかるみに注意」(『ぬかるみに注意』収録)講談社

なければ楽だろうと常々思っていたのに、実際生理が来なくなってこれほど動揺するとは自分でも思わなかった。 p.12 テーブルの隅には、歴代の女性社員が置いていった古い少女漫画が積まれている。読みかけの『スケバン刑事』を手に取り、食べながら読んだ。…

恩田陸『ブラザー・サン シスター・ムーン』河出書房新社

記憶って本当に不思議だ。一年、二年、三年、四年と順ぐりに収まっているのではなく、まさに「順不同」で四年間があたしの中でひとまとめになっている。 こうして思い出すのも、断片ばかり。 p.21(「第一部 あいつと私」より) そもそもあまりにも平穏で、…

恩田陸『ブラザー・サン シスター・ムーン』河出書房新社

狭かった。学生時代は狭かった。 広いところに出たはずなのに、なんだかとても窮屈だった。 p.9(「第一部 あいつと私」より)

井上荒野『雉猫心中』マガジンハウス

猫の影。それは、わたしにとっては、待つ、ということと結びついている。猫は簡単にいなくなるからだ。野良猫はもちろん、飼い猫であっても、ある日、いつものようにふらりと出かけて、そのまま帰ってこなくなる。わたしは窓から目が離せなくなる。そこに、…

井上荒野『雉猫心中』マガジンハウス

ハル、ハルという声が聞こえてきた。 p.5

奥泉光『神器<上> 軍艦「橿原」殺人事件』新潮社

禍々しき死の影――言葉とはこれである。 p.18 観念では死に親しんでも、それはいまだリアルに俺に迫ってはいなかった。これはつまり、単純に、俺が生きているということだろう。 p.71 やや赤みのかかった蛍光灯の光に満たされた、天井の低い十畳間ほどの矩…

奥泉光『神器<上> 軍艦「橿原」殺人事件』新潮社

○九○○に俺たちは内火艇に乗り込んだ。桟橋に立っていたときから、寒くて仕方がなかったんだが、艇が飛沫をあげて走り出せば、剃刀に変じた風が頬に首に斬りつけ尚更寒い。 p.9

小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』文藝春秋

「きっち他のところに特別手を掛けて下さって、それで最後、唇を切り離すのが間に合わなくなったんじゃないだろうか」 「他のところ、って?」 「それはおばあちゃんにも分からないよ。何せ神様がなさることだからね。目か、耳か、喉か、とにかくどこかに、…

小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』文藝春秋

リトル・アリョーヒンが、リトル・アリョーヒンと呼ばれるようになるずっと以前の話から、まずは始めたいと思う。彼がまだ親の名付けたごく平凡な名前しか持っていなかった頃の話である。 p.5

千早茜『魚神』(いおがみ)集英社

「白亜、恐ろしいのと美しいのは僕の中では同じだよ。雷も嵐も雷魚も赤い血も。そういうものにしか僕の心は震えない。どちからしかないとしたら、それは偽物だ。恐ろしさと美しさを兼ね備えているものにしか価値は無いよ。僕はそう思っている。白亜、顔色が…

千早茜『魚神』(いおがみ)集英社

この島の人間は皆、夢を見ない。 島の中ほどにある小さな山の上に朽ちかけた祠があり、そこに棲む獏が夢を喰ってしまうのだ。島に住む人々の心は虚ろで、その夢はあまりにも貧しいため獏はいつも飢えていて、島の灯りに惹かれ訪れた客人の束の間の惰眠ですら…

宇佐美游「雪の夜のビター・ココア」(『29歳』収録 日本経済新聞出版社)

「不倫だからそう見えるんじゃないの」 「違う。大崎さんは何もかも、完璧なのよ」 「不倫だからよ」 p.201 こんなはずでは、とちょっと思う。でも、やはり、人は変わるのだ。目の前のものが現実になり、遠いものはどんどん非現実になる。 p.207

いしいしんじ『四とそれ以上の国』文藝春秋

海岸を歩いていて、南洋の果物を拾いあげ、影をなせる枝が茂る遠い島に思いを馳せたのは赤く長い鼻の男や祠について詳しかった痩せた民俗学者で、この果物のことを『海上の道』という本に短く書いた。この本は読んだことがあった。また、この流れついた椰子…

絲山秋子『ばかもの』新潮社

「額子って、終わったあとの方がかわいいよな」 額子は突っ伏したままのくぐもった声で言う。 「ばかもの」 p.23 額子はすぐに俺のことを忘れてしまうだろう。俺はいつまでも額子のことを覚えているだろう。 p.43 失い続ける。なにもかも失い続ける。得た…

絲山秋子『ばかもの』新潮社

「やりゃーいーんだろー、やりゃー」 後ろから柔らかく抱きしめていたヒデの腕を、がばりと振りほどいて額子は言う。 p.3

絲山秋子『北緯14度』講談社

日本を出て十日、元気がない。帰りたいわけじゃない。さびしくなんか全然ない。ここを過ぎれば本当に楽しくなることもわかっている。私はここを好きになれると思っている。学生のときは、自分だけが何もやることがなくて苦しいなんて思ったけれど、今は書く…

赤坂真理/大島梢(画)『太陽の涙』岩波書店

死者も生者も、等しく死を経て生み出される。神々の錬金術で僕らは溶ける。とろりと流体金属のように。 沈まぬ 太 陽 そこから僕らはしたたり落ちた、太陽の涙。涙は魂がたったひとつ記憶している唄を奏でる。僕と、恋人と。僕らと共に落ちた多くのしたたり…