作家さ行
「瀬戸内さんを羨ましいと思うのは、ぼくが絶対逢えない歴史的作家にほとんど逢っていることです」 p.38
「女は職人にはなれない――。こうやって精進しても、技が日の目を見ることもない。そりゃああたしは好きでやってることだもの、なんの不満もないけれど」 p.58
木枯らしはうなるように、外の闇を切りさいている。 おはいり、とかすれた声にうながされ、お凜は襖障子をあけた。 p.3
――もう、仕方ないんじゃないかなあ。これだけ世の中の流れがゆっくりしちゃえばな。ちょっとぐらい時間がズレることだってあろうさ。 p.63 ――俺さ、時々、今生きているこの時間が切り取られて、ぽかんと歴史の中に宙ぶらりんで浮かんでいるような気分になる…
なにしろあてにならないラジオだった。ラジオ局の配布する番組表に舌を出すかのように。ラジオは気まぐれに思い思いの音を流した。どんな曲が流れ始めるか、どんな声が語り始めるかは、スイッチをひねるまで誰にも分からなかった。 p.7
――熱いとか痛いとか感じないとさ、自分が平坦になっていくような気がするの。 p.104 碕沢さんはぬくもりを確かめるように僕の脚に数秒さわると、なにやら神妙な顔をして、静かに手をもとに戻した。 ――うん。つながってる、って感じ。 p.105 ――なんか、私が…
天井の染みがななめ左を指している。 p.3
「昼は他人で、夜は仲間。これってかなりスペシャルな感じがしない?」 p.23「季節外れの光」 じっと眺めていると、自分に向ってぐわっと迫ってくるほどの星空。むっと立ち上る草いきれ。虫の声。仲間の気配。 世界が、くるりと完璧な円を描いた瞬間。今な…
「ハワイに行きたい」 p.86
きれいなんだ。本当にきれいなんだ。 トトロみたいな野山じゃなくこんな寂れていく都市の風景が、俺の故郷なんだ。そしてそれを美しいと思うんだ。心からそう思う。 p.13 「あまり悩まなくていいと思うんだ。きっとそれは幸せな印なんだ。みつきがこの先の…
団地が、ぼくの家だ。 p.3(プロローグ)
そうだねえ、兄貴ってのは妹の永遠の味方だね」 p.111(第二話「妹の恋人」より) 「そんな歴史があったんですか」 「なんだって歴史があるんだよ。年寄りがいなくなると、古い話は消えちゃうのさ」 p.217(第五話「進退伺い」より) 大家さんのミヤコさん…
この人たちは、いっしょにいる人間のことを、どれだけ知っているのだろうか。いっしょにいる人間のことをどれだけ知っているかと、不安になることはあるのだろうか。 p.190 確かだと思っていたものが、つかもうとすると消えてしまった。何かがねじれている…
<歌舞伎町で朝までやってる味噌ラーメンの超うまい店>は、とうとう見つからなかった。 p.7
あふれている。 物語が横溢している。 p.54〜55 地図男が地図帖を開くとき。 物語を、地図男はだれに語っている?(全てに傍点) p.60 巡礼と。 記録、か。 p.128 反復する言葉、集積する物語。登場人物たちの移動の線分と、感情の軌跡。記録されることで…
地図帖||148頁ほか「あるひとりの子どもが、音楽に祝福されて産まれた。 p.3
「なんもわかってへんな」 「わからなあかんこととちゃうからええねん」 「人生を損してるで」 「わたしは朝陽の知らんことをいっぱい知ってる」 「なにを」 「知らんから説明してもわかれへん」 「あっ、そうか」 p.106〜107 もしかして、神さまに祈ったり…
二階のベランダの手すりに腰掛けている二人が、こっちに向かって指差したように見えたので、あの場所から車の中にいるわたしのことは見えるんだろうかと、と思った。 p.3
地獄に落ちた亡者が、生前に犯した罪の所為で此処にいるならば、地獄で亡者を苦しめる鬼は、生前の亡者に怨みのある者。それが地獄の規則なら、これはまさに現実。 p.13 そうするうちに不思議と、その蜘蛛が何かの遣いに思えてきましてね。化身ってやつでし…
一日目 さて、何から書きましょうね。 この役に就いた抱負でも書けば宜しいですか。それとも生まれて初めて願いが叶えられたことに、感謝でもしましょうかね。 p.5
「なんというか、世界の終わりみたいな夜です」 p.43 信じられないんです、と私は首を振った。強く振った。 「道端でいきなり殴られたり刺されたりしないことを。ホームに立ってて背後から突き落とされないことを。知らない人が、意味もなく私を蔑んだり疎…
私は、何度も蛍との約束を破ってしまったけど、海へ行きませんか、という誘いにだけは、こたえることができた。 p.3
言ってみれば、あの終戦直後の滅茶苦茶な世の中では、すべての日本人―いや、この国で普通に生活していたあらゆる人間が、生きてゆくことだけで精一杯だったんだ」 「どんな人間でも、いつ何時、凶悪事件を起こしてもおかしくなかった、そういうことですね」 …
昭和二十一年八月七日。 線路の向かい側に続くトタン屋根が、真夏の日差しを跳ね返していた。 p.5
占い師ってのはね、カウンセラーなの。客の大半は、占い師に超自然的な力を求めているんじゃなくて、アドバイスを求めているの。自分の迷いを断ち切ったり、何かを決意したり諦めたり、そうした、心を決めるための勇気をもらいに来るのよ。 p.74
妹が「私母さんの手紙の『母より』って字を見るのが、すごーく嫌だ、気持ちが悪い」と云ったので、「えーあんたも。やだね、あの『母より』って字見ると手紙読みたくなくなる」そして読まない時もあった。 p.28 絵が本当にうまい人は口を半びらきにして舌を…
部屋にはいると母さんはベッドで向うむきに眠っていた。 p.3
突然、自分はとても幸福な人間だという思いが、体全体に満ち溢れた。なぜだか胸のあたりから、温かいものが湧き出てきて止まらない。 白い猫が、澄んだ声で短く鳴く。 「きれいだなぁ」 その声に応えるように、志郎もつぶやいた。 不思議な感覚だった。 まる…
凍えた風に吹き散らされた無数の枯葉が、ザラザラとのたうつ音を立てながら、長い坂道を登ってくる。 p.3(プロローグ) 目の前には、長く緩やかな坂道が続いていた。 p.15
「血のめぐりの悪い男ね、相変わらず。あたしがそれを認めれば、認めたとたんに、あなたの身に危険がおよぶかもしれない。そんなことは考えてもみない?さっきあなたは、この物語は自分の人生とも関係があると言った。でもそれは言葉のうわっつらだけ。本当…