印象的なシーン

瀬戸内寂聴『奇縁まんだら 続』

「瀬戸内さんを羨ましいと思うのは、ぼくが絶対逢えない歴史的作家にほとんど逢っていることです」 p.38

東直子『薬屋のタバサ』新潮社

「だけどさ、死んじまうからこそ、自分のかたちを残したがるんじゃないかと思ってね。残したがってるんだから、こうして自分が見つけたものくらいは、集めてるんだよ。ほうっておいたら、踏みつぶされたり、吹き飛ばされたり、影も形もなくなっちゃうだろう…

赤染晶子『うつつ・うつら』文藝春秋

ここでは空気も風も求めてはいけない。この街の人たちの静かな呼吸でなければならない。これを知らない芸人は窒息する。もう堪えられなくなって走って逃げる。うつつもそぞろも何人もの芸人がこの舞台から逃げるのを見てきた。二人は思っている。たまたま、…

青山七恵『やさしいため息』河出書房新社

風太のノートなど、もういらない。自分の生活がどう記録されようと、もう興味がない。本当の人生はつれなくて、安全だけども不毛だ。 p.114 「でも、久々に会っても、ちゃんと自分から人生をややこしくして面倒なことをやってるまどかは、なんか感動的だっ…

青柳いづみこ『六本指のゴルトベルク』岩波書店

『ジャン・クリストフ』は音楽家を主人公にした音楽小説だが、同時に、音楽現象というものを見事に言語化した作品でもある。クラシックはよくわからないから、とか長くてむずかしそうだから(たしかに……)という理由でこの書を遠ざけるのは、人類がつくりだ…

宮下奈都『遠くの声に耳を澄ませて』新潮社

そのときの様子がありありと目に浮かぶ。私を膝に乗せて話してくれたのは、たぶん祖母とふたりでじゅうぶんに楽しんだその後だったに違いない。どこにも出かけたことのなかった祖父母に豊かな旅の記憶があったことに私は驚き、やがて甘い花の香りで胸の中が…

西條奈加『恋細工』新潮社

「女は職人にはなれない――。こうやって精進しても、技が日の目を見ることもない。そりゃああたしは好きでやってることだもの、なんの不満もないけれど」 p.58

大島真寿美『すりばちの底にあるというボタン』講談社

晴人は、すぐそばにいる、薫子や雪乃や邦彦と知り合い、いっしょに歩いた、このすりばち団地のことを思っていた。ジャングルジムや、坂道。毎朝、さがしたボタン。作戦会議。お父さんとは別れてしまったけれど、ぼくはここで、友だちをみつけた。だから、こ…

鹿島田真希『ゼロの王国』講談社

「おお、その通りです。僕は自分が太陽に愛されているように、自分も人を愛そうと思っているのです」 「あなたはまだ人の愛というものを知らないのね。ああそうね。だってあなたは孤独を覚えたことがないんですもの。おばあさんと自然に愛されて、それで満た…

瀬川深『ミサキラヂオ』早川書房

――もう、仕方ないんじゃないかなあ。これだけ世の中の流れがゆっくりしちゃえばな。ちょっとぐらい時間がズレることだってあろうさ。 p.63 ――俺さ、時々、今生きているこの時間が切り取られて、ぽかんと歴史の中に宙ぶらりんで浮かんでいるような気分になる…

田山朔美「霊降ろし」文藝春秋(『霊降ろし』収録)

信じるかそれとも信じないか。結局のところ、差はそれだけなのかもしれない。だとしたら、私は信じたくない。信じてしまったら存在する。そうなったら、こちらの世界に引っかかりのすくない私は、あちらの世界に引きずり込まれて戻ってこられなくなる気がす…

田山朔美「裏庭の穴」文藝春秋(『霊降ろし』収録)

「なにを埋めたの」 私は小さな声で聞いた。 「なにも埋めてないよ」 嘘だ、と私は思った。 「ねえ、なにを埋めたの」 母は私を見ずに言った。 「朝子、この夢は楽しい?」 「夢?」 「そう、ここは夢のなかだよ。朝になったら消えるんだよ」 p.9 「死んだ…

稲葉真弓「光の沼」新潮社(『海松』収録)

この土地の古い言葉で「食べなさい、飲みなさい、走りなさい、飛びなさい」という意味の<聲>が、地底とも天空ともつかぬ場所から聞こえてくる。楽しいことのすべてを、こちらへ託すような<聲>。同時にそれは、あっという間に五十数年を過ごしてしまった…

稲葉真弓「海松」新潮社(『海松』収録)

ずっとずっと仕事をしてきたのだ。食べるために不健康な毎日を送ってきた。生きるために不健康を選ぶのは矛盾じゃないか。だからここではなにもしたくない。無意味な暮らしがいい、空っぽの日々がいいといつも思う。 p.19 そんな時間が私にもあった。私の中…

ドロシー・キャンフィールド・フィッシャー『リンゴの丘のベッツィー』徳間書店

けれどもベッツィーは、この先、何度も同じようにおどろくことになるのです。今生きている人たちも、長い時間の流れの中で昔とつながっているのだということを、ありありと感じるたびに……。 p.79 誕生日がこんなに心にのこるすてきな日になった子なんか、き…

西加奈子『きりこについて』角川書店

皆、不味いものをこの世で一番美味しい、とまで思えた「うっとり」していた子供時代が、懐かしいのである。 そして、お酒の力を借りないと、馬鹿らしい一言に大笑いすることが出来なくなってしまった大人の自分を、少しのセンチメントをもって、思い返すので…

平田俊子『さよなら、日だまり』集英社

裁判官や弁護士にはありふれたことでも、わたしにとっては初めてのことだ。結婚にとって離婚は死だ。簡単にそのときを迎えてはいけない。たくさん苦しみ、ぼろぼろにならなければいけない。 p.141 幸せが日だまりになってこの部屋を守ってくれている。夫と…

乾ルカ『プロメテウスの涙』文藝春秋

生きるということは、ただそれだけで尊いのだろうか。それがどんな性質のものであっても、心臓が動いて、体温があればそれでいいのか。意識もはっきりしていれば、なおいいのか。 もはや苦痛しかない世界に何を見出せばいいというのだ。 p.160 リーダビリテ…

大島真寿美『三人姉妹』新潮社

あのね、夜中に一人で車で走ってると、あたしは自由だ、どこまでも自由だ、って気がしてくるの。これって不思議よ。どんなにへこまされている時だって、絶体絶命の時だって、あたしは壊されない、壊れてなんかやるもんか、って強く思えるの。このままどこま…

北村薫『鷺と雪』文藝春秋

――身分があれば身分によって、思想があれば思想によって、宗教があれば宗教によって、国家があれば国家によって、人は自らを囲い、他を蔑し排撃する。そのように思えてなりません。 p.68(「不在の父」より) ――人の世の常識とは何だろう。真実とされている…

ドナ・ジョー・ナポリ『バウンド−纏足』あかね書房

今回のことはすべていんちきだ。いんちきはもうこりごり。皇太子さまは靴を使ってお妃を選ぼうとしている。でも、あの靴を履ける女の人はきっとたくさんいる。皇太子さまだってそのくらいは知っているはずだ。つまり、皇太子さまは本当は自分の好みにいちば…

橋本紡『もうすぐ』新潮社

「そうなのよ。難しいのよ。放っておいたら死んじゃうとわかっている小さな命を、見捨てることなんてできないわよ。ただまあ、ここまで厄介だとは想像しなかったけど。猫なんて、放っておいたら、勝手に生きてるもんだと思ったのに」 p.7 「わたしはどちら…

白岩玄『空に唄う』河出書房新社

――熱いとか痛いとか感じないとさ、自分が平坦になっていくような気がするの。 p.104 碕沢さんはぬくもりを確かめるように僕の脚に数秒さわると、なにやら神妙な顔をして、静かに手をもとに戻した。 ――うん。つながってる、って感じ。 p.105 ――なんか、私が…

津島佑子「サヨヒメ」(『電気馬』新潮社 収録)

そう。その通り。だれよりもなによりも大切な子どもをいけにえにして、なにかの神に捧げ、このひとりの女はこれから先も生きつづけようとしている。でも、その女もいつかまた、なにかの神のいけにえにされていく。なんの神なのか。時の神。希望の神。女だけ…

津島佑子「雪少女」(『電気馬』新潮社 収録)

冬の雪から生まれる雪女はただなんとなく、人間が恋しくて、人間のそばに近づきたくて、雪の夜、自分に語りかけてくる人間を求めて、さまよいつづけるだけ。 p.17

金原瑞人『翻訳のさじかげん』ポプラ社

そして、古びないものなどなにもない。新しいものもやがて、ありふれたものになり、古いものになっていく。あらゆるものは時間がたてば古びる。もちろん古びても、なお次の時代に通用するものもある。しかし、そういったものが「本当に価値がある」ものであ…

長嶋有『ねたあとに』毎日新聞社

今、我々が皆この世からいなくなったら……。将来ここを発掘し、この卓を発見した考古学者は“分かる”だろうか。 p.32(その一 ケイバ) 不意に昨年のことを思い出す。同じコタツの同じ位置でコモローが放った言葉を。 「俺が寝た後に、皆がものすごく楽しい遊…

吉田篤弘『小さな男*静かな声』マガジンハウス

すでに小島さんのもとから離れていた時間の係員が、どこからか音もなくするすると忍び寄り、小さな男の背中を「ついに」と軽く叩いて無表情のまま去っていった。 p.94(「小さな男 #3」より) 「大きな愉しみは時として気紛れだが、ちょっとした愉しみは決…

仁木英之『胡蝶の失くし物 僕僕先生』新潮社

「無数の可能性があちこちに伸びている時の河をあてもなく流れている今が、楽しくて仕方ないんだよ。キミたちと一緒にね」 p.162(「天蚕教主」より)

マイケル・カニンガム『星々の生まれるところ』集英社

死者は機械の中に戻って来る。かれらは人魚が海の底から船乗りに向かって歌うように、生ける者に誘いの歌をうたうのだ。 p.68(「機械の中」より) 一つの感覚が心の中に湧きあがった。血がふつふつと湧き立つような感じだ。一つの波、一つの風がやって来て…