赤染晶子『うつつ・うつら』文藝春秋

ここでは空気も風も求めてはいけない。この街の人たちの静かな呼吸でなければならない。これを知らない芸人は窒息する。もう堪えられなくなって走って逃げる。うつつもそぞろも何人もの芸人がこの舞台から逃げるのを見てきた。二人は思っている。たまたま、逃げたのは別の芸人だったが、明日は自分たちかもしれない。二人はいつも気を張っている。どんなに疲れても、何とか浅い呼吸を繰り返す。溜息をつこうと息を胸いっぱい吸い込めば最後である。口に入ってくるのは重いぬるま湯である。それを肺に入れてはならない。湯の中でくらくらして、よろめいても何とか踏ん張らねばならない。ここで倒れてはならない。うつつは必死の思いで舞台に立つ。  p.91

早乙女紅子になるために、一日でも無事にこの舞台に立っていなければならない。そのために握る拳がもう疲れている。本当は鶴子も泣きたい。どうしたらいい。あの壊れた芸をどうしたらいい。  p.109

彦治さんは鶴子を慕うあまり、鶴子を消そうとする。  p.146