井上荒野『切羽へ』新潮社

私たちが見たいのは、一種の「ミシルシ」みたいなものなのかもしれない。この島で私たちが正しく生きているという神託みたいなもの。  p.9(「三月」より)

「ええ、まあ……」
「どうして?」
「どうして」
 石和は私の言葉を繰り返し、ちょっと笑った。困っているような、倦んでいるようなその笑い方を、私はもうすっかり覚えてしまった。
「何にでも理由を欲しがるんですね、あなたは」
 私は頬が熱くなるのを感じた。  p.147 「十一月」

「へんだけど、本当なのよ、残念ながら。結婚には興味なかったけど、妻になりたくなったの。どんな気持ちがするものか、知りたくなったのよ」
 月江はふてぶてしい笑いを浮かべ、私の顔をじっと見ながら言葉を重ねた。
「どんなにかいいものなんでしょうね。だって、あなたも、あの東京から飛んできたバカ女も、妻でいることがすごく大事そうだもの。しがみついているもの。あたしはかねがねあなたのそういうところがきらいだったんだけど、考えを変えて、自分で試してみることにしたのよ――石和と」  p.172「十二月」

 母が父の誕生日に贈った木彫りの像。母はこれを、トンネルの跡で見つけたのだ。こがんものがあんたはよう見つけてくるねえ。呆れたようにも、愛おしげにも聞こえる声で父が言うと、母は答えた。
 切羽までどんどん歩いていくとたい。  p.173「十二月」

 どんなにゆっくり歩いても、私は夫から離れていった。私が離れていくということは、夫が離れていくということでもあるのだ、と不意に思った。ばかげている。私は急いで自分に言う。これは、たんなる移動ではないか。それなのに、こんなふうに世界の終わりみたいな気持ちになるなんて、どうかしている。 
 しずかさんの家の前に、石和がいた。私は、自分が驚いていないことに疚しくなった。  p.187「一月」

「どうして学校にこないの?どうしてどこにもいないの?」
 私は立ち上がっていた。石和もつられたように立ち上がった。片手に、今し方新聞で包んだばかりの、しずかさんの湯呑みを持っていた。
「僕は、もう島を出る」
 石和はとうとうそう言った。私はそれを知っていたし、彼にそう言わせたのは自分であるような気もした。
 私は石和の手から湯呑みを取り上げ、畳の上に置いた。
「来て」
 外に出たとき、こちらに向かって早足でやって来る夫の姿が見えた。 
 p.189「一月」

 その言葉を、石和は、はじめて使ってみる言葉のように、ゆっくりと発音した。それから彼は、かつての、廃墟の前を通りすぎるときの私のように、目を伏せて、私の前からいなくなった。  p.196「二月」 

 麻生セイ、麻生陽介、石和聡、月江、本土さん、しずかさん