佐野洋子『シズコさん』新潮社
妹が「私母さんの手紙の『母より』って字を見るのが、すごーく嫌だ、気持ちが悪い」と云ったので、「えーあんたも。やだね、あの『母より』って字見ると手紙読みたくなくなる」そして読まない時もあった。 p.28
絵が本当にうまい人は口を半びらきにして舌をペロペロ出すのだ。私は兄の絵を見る人だった。そして仕上ると私は本当に満足してとても幸せなのだった。
だから京都の小父さんは絵具のお土産を、多分とても高価だったものを、兄のために持って来てくれたのだ。
絵は兄ちゃんが描くものだった。絵具は私のものになった。 p.64
私も母をだまくらかして入れた。素直に入った母が痛ましい。 p.109
母は誰にもごめんなさいとありがとうを云わない人だった。 p.118
ごめんなさいも、ありがとうという言葉も、お口に合わなかったのか、あるいは生涯初めに、ごめんなさいとありがとうを云うきっかけを失ってしまったのだろうか。そこにふたでもつまってしまったのだろうか。あるいは、どんな事にも感謝の気持ちと贖罪の気持ちを持たなかったのだろうか。
あるいは、ありがとうとごめんなさいと云う事が、人生の負けのように思っていたにだろうか。自尊心が狂っていたのだろうか。
ごめんなさいの代わりに母は、「そんな事ありませんよ」とまず叫ぶのだった。それは人の話をまったく聞かないという事だった。 p.118〜119
私は正気の母さんを一度も好きじゃなかった。いつも食ってかかり、母はわめいて泣いた。そしてその度に後悔した。母さんがごめんなさいとありがとうを云わなかった様に、私も母さんにごめんなさいとありがとうを云わなかった。今気が付く、私は母さん以外の人には過剰に「ごめん、ごめん」と連発し「ありがと、ありがと」を云い、その度に「母さんを反面教師」として、それを湯水の様に使った。でも母さんには云わなかったのだ。 p.130
「母さん、テルコさん覚えている?」
「誰それ」母さんは一番始めにテルコさんを忘れた。一番忘れたい人を母さんの脳みそは上手に忘れさせた。よかったね、母さん、とその時私は心底思った。 p.131
二年近く私は母と同居したが、それは愛情ではなく義務であり責任であった。
私は少しも母に優しくなかった。
妹は義務でも責任でもなく確かな情愛であったと思う。 p.151
そうだ、母さんが私の母さんではなく他人だったら、「生んでくれと頼んだ覚えはない」などとばちあたりな事を誰が云うだろう。肉親は知らなくていい事を知ってしまう集団なのだ。家族だからこそ互いによくも悪くも深いくさびを打ってしまうのだろう。 p.154
「母さん私もう六十だよ、おばあさんになっちゃったんだよ」
「まあかわいそうに、誰がしてしまったのかねェ」 p.160
私はずっと母を嫌いだった。ずっと、ずっと嫌いだった。
私の反抗期は終りがなかった。 p.178
あゝ、世の中にないものはない。
ごくふつうの人が少しずつ狂人なのだ。
少しずつ狂人の人が、ふつうなのだ。
私は、自分が母親に対して気がふれているという事を、自分で始末出来なかったのだ。ずーっと、ずーっと。 p.196
四歳位の時、母が私の手をふりはらったときから、私は母の手にさわった事がない。 p.206