三浦しをん『光』集英社

 殺してはいけないと、いまのこの島で言うのは無意味だ。なぜ殺してはいけない。罪を犯したら家族が友人が哀しむからか。俺の家族と友人は全員死んだ。死体袋のなかの泥人形が哀しむとは思えない。秩序を乱してはいけないからか。もとからこの世界のどこにも秩序なんかなかったのだと、理不尽な死にあふれた島がこれ以上なく告げている。殺されてもしかたがないほど罪深い人間はいないからか。本当に?  p.62

 こうなると思っていた。こうなればいいと思っていた。子どものころから、ずっと。
 大きな波がやってきて、すべてを海へさらっていく。
 だれかを痛めつけたものは、いつか必ず復讐される。見て見ぬふりをしたものも、暴力の庇護下でのうのうと平安をむさぼるものも、みな例外なく報いを受ける。  p.133

 美浜島に囚われているのは、俺たち男だけなんだなとふと思った。  p.154

 愛があってしかるべきとされるところに空白があり、その空白を暴力が埋めているのだと知った途端、どいつもこいつも急に居心地悪そうに目をそらす。暴力も愛の一種なんじゃないかと、なんとか理屈をこねて納得しようとする。愛は不動で不変なものなどではなく、暴力と簡単に入れ替え可能で憎しみに変質しやすいものなのだと、まざまざと見せつけられるのが怖いからだ。その結果の珍獣扱い。
 うんざりだった。自分にも、父親にも、まわりにいるやつらすべてにも。  p.157

 浜辺に打ち寄せる波が砂を湿らせつづけるみたいに、きりもなくむなしい。
 美とも平安とも無縁だった。破壊の大波に飲みつくされるまえも、島は狭い世界に生きる人間の嫉妬と猜疑と惰性に満ちて、黒々と葉を繁らせていた。その木には血の色の花が咲いていた。  p.188

 でも忘れてしまった。覚えているのは、つぶれて泥に埋もれた家だ。カーキ色の袋に入って並べられた死体と、夜の神社の境内だ。
 月が出ていた。凪いだ海に、水平線までつづく白い月光の道ができていた。
 その道を歩いていきたかった。歩いて歩いて、消え去ってしまいたかった。  p.208

 愛も誠実も信頼も計りようがない。
 信之はとうに心を決めていた。だがその決心が、妻や娘に理解されることはないだろう。
 二度と殺したくなかった。突然の暴力や死と無縁のところで、穏やかに暮らしたかった。それが本心だ。でも、追ってくる。
 娘は見知らぬ男に理不尽に傷つけられた。二十年の歳月をものともせず、美花には黒い影が迫っている。もう気づいていないふりはできない。
 罪の有無や言動の善悪に関係なく、暴力は必ず振りかかる。それに対抗する手段は、暴力しかない。道徳、法律、宗教、そんなものに救われるのを待つのはただの馬鹿だ。本当の意味でねじふせられ、痛めつけられた経験がないか、よっぽど鈍感か、勇気がないか、常識に飼い慣らされ諦めたか、どれかだ。  p.217〜218

 暴力で傷つけられたものは、暴力によってしか恢復しない。周囲の愛と励ましと支えによって立ち直る?そんなのは無理だ。  p.218

 俺はまちがっていない。まちがわず、自分自身と大切なひととを生きのびさせた。これからも生きる。暴力を振るったことなど一度もない顔をして。妻子を愛し、堅実に働き、いつか呼吸の止まる日まで、秘密のすべてを胸に抱いて。
 殺して生きる。だれもがやっていることだ。殺す相手が牛や豚や鶏や虫ではなくひとだからといって、ちがいがあると考えるほうがおかしい。
 罪を生じさせるのは常に人間の意識だ。罪の有無を忖度することなく、津波はすべてを砕いていった。
 信之は知っている。罪などどこにもない。あるのは理不尽と暴力だけだ。  p.218

 津波も死も、運不運ではない。それはただ、やってくる。海の彼方から。暗い夜の向こうから。海も夜も厳然として存在するだけであり、そこを通ってそれはある日、やってくる。選別は働かず、意志は無力だ。
 月が地上に投げかける白い道。
 運などというあやふやなものから、もっとも遠く平等だ。何人殺しても、何人幸せにしても、いずれだれもが等しく死ぬ。  p.231