作品は行

稲葉真弓「光の沼」新潮社(『海松』収録)

この土地の古い言葉で「食べなさい、飲みなさい、走りなさい、飛びなさい」という意味の<聲>が、地底とも天空ともつかぬ場所から聞こえてくる。楽しいことのすべてを、こちらへ託すような<聲>。同時にそれは、あっという間に五十数年を過ごしてしまった…

乾ルカ『プロメテウスの涙』文藝春秋

生きるということは、ただそれだけで尊いのだろうか。それがどんな性質のものであっても、心臓が動いて、体温があればそれでいいのか。意識もはっきりしていれば、なおいいのか。 もはや苦痛しかない世界に何を見出せばいいというのだ。 p.160 リーダビリテ…

ドナ・ジョー・ナポリ『バウンド−纏足』あかね書房

今回のことはすべていんちきだ。いんちきはもうこりごり。皇太子さまは靴を使ってお妃を選ぼうとしている。でも、あの靴を履ける女の人はきっとたくさんいる。皇太子さまだってそのくらいは知っているはずだ。つまり、皇太子さまは本当は自分の好みにいちば…

ドナ・ジョー・ナポリ『バウンド−纏足』あかね書房

シンシンは泉のほとりでしゃがんでいた。無言で祈りを捧げている。 p.3

金原瑞人『翻訳のさじかげん』ポプラ社

そして、古びないものなどなにもない。新しいものもやがて、ありふれたものになり、古いものになっていく。あらゆるものは時間がたてば古びる。もちろん古びても、なお次の時代に通用するものもある。しかし、そういったものが「本当に価値がある」ものであ…

マイケル・カニンガム『星々の生まれるところ』集英社

死者は機械の中に戻って来る。かれらは人魚が海の底から船乗りに向かって歌うように、生ける者に誘いの歌をうたうのだ。 p.68(「機械の中」より) 一つの感覚が心の中に湧きあがった。血がふつふつと湧き立つような感じだ。一つの波、一つの風がやって来て…

津村記久子『八番筋カウンシル』朝日新聞出版

地元の人間関係に依存するのはろくなもんじゃない、とホカリは言う。 p.47 それは大げさだとしても、ホカリの母親が兄と妹の間に何らかの差をつけていることは確かだ。自分たち兄弟とも少し似ている、とタケヤスは思う。母親は男の子をかわいがる。そして母…

津村記久子『八番筋カウンシル』朝日新聞出版

来そうな町内の人はひととおり来たと思うから、ちょっと休んでてええよ、とホカリが言ったので、タケヤスは弁当を受け取り、関係者用の控え室に入った。 p.3

恩田陸『ブラザー・サン シスター・ムーン』河出書房新社

記憶って本当に不思議だ。一年、二年、三年、四年と順ぐりに収まっているのではなく、まさに「順不同」で四年間があたしの中でひとまとめになっている。 こうして思い出すのも、断片ばかり。 p.21(「第一部 あいつと私」より) そもそもあまりにも平穏で、…

恩田陸『ブラザー・サン シスター・ムーン』河出書房新社

狭かった。学生時代は狭かった。 広いところに出たはずなのに、なんだかとても窮屈だった。 p.9(「第一部 あいつと私」より)

谷崎由依「冬待ち」文藝春秋(『舞い落ちる村』収録)

背の高い木製の書架のあいだにときどき誰かが経っている。森のよう。道標のある道をたどっていくようだ。糸乃は鞄から幾つかのメモ書きを取り出して、本の住所をたずねて歩く。幾つにも分岐する書物の家を横目で見ながら、誰々他著とあるのを一瞬、他者、と…

谷崎由依「冬待ち」文藝春秋(『舞い落ちる村』収録)

頭上では空が旋回しながら無数の雨滴を散らしている。車輪が軋り、飛沫を上げる遠い音。すると耳許でかたかたとやかんが沸騰する。ぼんやりした頭のまま立っていって珈琲を湯で溶く。牛乳を流し込む。何も起こらないであろう今日。 p.79

クリス・クラッチャー『ホエール・トーク』青山出版社

小学校で、肌の色の違いは、祖先が大昔にどこからやってきたかの違いにすぎないと知ったとき、こう思った。人種差別主義者ってのはよほどのばかか、劣等感のかたまりで、いつもだれかを見下してないと安心できないやつばっかりなんだ、と。自分にそういいき…

クリス・クラッチャー『ホエール・トーク』青山出版社

しばらく間を置いてから書くといい。じっくり思い出して、物語をみつけるんだ。 p.5

木村紅美「風化する女」(『風化する女』文藝春秋 収録)

「年食って一人ぼっちでさびしく死んでいくなんて、ごめんだよね」 p.17 私がいま、突然死んでしまっても、会社での反応は、きっと淡々としたものだろう。ふとそんなことを思った。同時に、それは当たり前すぎるくらい、当たり前のことなんだと気づいた。 …

木村紅美「風化する女」(『風化する女』文藝春秋 収録)

れい子さんは、一人ぼっちで死んでいた。 p.7

藤谷治『船に乗れ!1 合奏と協奏』

「未来はある 空を見上げたまま、父はいった。 「それでも、未来はあるんだ」 僕は父を見なかった・ 「そうだろ?」 僕は答えなかった。 p.31 僕は何か、ただ透明な寂しさみたいなものが、胸の中に染み通っていくのを感じた。そのときは言葉にならなかった…

三崎亜記「廃墟建築士」(『廃墟建築士』収録)

「廃墟とは、人の不完全さを許容し、欠落を充たしてくれる、精神的な面で都市機能を補完する建築物です。都市の成熟とともに、人の心が無意識かつ必然的に求めるようになった、『魂の安らぎ』の空間なのです」 p.61〜61 廃墟が人々を癒すものであるならば、…

柴崎友香「ハワイに行きたい」(『29歳』収録 日本経済新聞出版社)

「ハワイに行きたい」 p.86

梶尾真治『穂足のチカラ』新潮社

新世界が来ます。誰もなしえなかった真の平和と安定と調和が訪れます。誰も思い悩むことのない、憎しみあうこともない、貧富もない、民族紛争も南北問題も経済格差も、環境問題も消失した未来です。それは一人一人の心が変わるだけで。解決する未来です」 p…

絲山秋子『ばかもの』新潮社

「額子って、終わったあとの方がかわいいよな」 額子は突っ伏したままのくぐもった声で言う。 「ばかもの」 p.23 額子はすぐに俺のことを忘れてしまうだろう。俺はいつまでも額子のことを覚えているだろう。 p.43 失い続ける。なにもかも失い続ける。得た…

絲山秋子『ばかもの』新潮社

「やりゃーいーんだろー、やりゃー」 後ろから柔らかく抱きしめていたヒデの腕を、がばりと振りほどいて額子は言う。 p.3

絲山秋子『北緯14度』講談社

日本を出て十日、元気がない。帰りたいわけじゃない。さびしくなんか全然ない。ここを過ぎれば本当に楽しくなることもわかっている。私はここを好きになれると思っている。学生のときは、自分だけが何もやることがなくて苦しいなんて思ったけれど、今は書く…

橋本紡『橋をめぐる いつかのきみへ、いつかのぼくへ』文藝春秋

突然蘇ってきた記憶を、友香はどう扱っていいかわからなかった。父と自分にも、あんなころがあったのだ。時が流れるうち、いろいろなことが変わってしまった。そして今も、変わり続けている。 p.34 (「清洲橋」より) 終わりだと焦っても、時間は案外残っ…

三浦しをん『光』集英社

殺してはいけないと、いまのこの島で言うのは無意味だ。なぜ殺してはいけない。罪を犯したら家族が友人が哀しむからか。俺の家族と友人は全員死んだ。死体袋のなかの泥人形が哀しむとは思えない。秩序を乱してはいけないからか。もとからこの世界のどこにも…

三浦しをん『光』集英社

海へ至る道は白く輝いている。 p.3

井上荒野「骨」(『あなたの獣』収録 角川書店)

「女の子にもてたかったら、謎の男になるといいわよ。女って、セックスすれば謎が解けると思っちゃうから」 p.208

打海文三『覇者と覇者 歓喜、慙愧、紙吹雪』角川書店

「長い間ってどれくらいですか?」 「たとえばカイトが七十二歳。わたしは八十八歳」 里里菜の声の余韻に、海人は耳をかたむける。拒絶のひびきはない。だが事実上の拒絶だ。そうとしか解釈できない。海人はがっかりする。 「俺まだ二十二歳です」 「あと五…

打海文三『覇者と覇者 歓喜、慙愧、紙吹雪』角川書店 

戦争孤児が見る夢を、佐々木海人も見る。小さな家を建て、消息不明の母を捜し出して、妹と弟を呼びよせて四人で慎ましく暮らすという夢を。八歳のころから見つづけてきたささやかな夢だ。 p.8

川上弘美「蛇は穴に入る」(『どこから行っても遠い町』新潮社より)

認知症を得た女や男でさえ、その例にもれない。どの男も女も、英さんの言葉を借りるなら、「自分の今までの人生を。どっと自分の上にふりかからせながら」、それぞれの人生の中から否応なしにこぼれでてくる幾多の苦みや軋みや、ときどきはよろこびを、介護…