作家は行

平田俊子『さよなら、日だまり』集英社

裁判官や弁護士にはありふれたことでも、わたしにとっては初めてのことだ。結婚にとって離婚は死だ。簡単にそのときを迎えてはいけない。たくさん苦しみ、ぼろぼろにならなければいけない。 p.141 幸せが日だまりになってこの部屋を守ってくれている。夫と…

平田俊子『さよなら、日だまり』集英社

阿佐ヶ谷駅の北口でバスをおりると風が強く吹いていた。 p.3

橋本紡『もうすぐ』新潮社

「そうなのよ。難しいのよ。放っておいたら死んじゃうとわかっている小さな命を、見捨てることなんてできないわよ。ただまあ、ここまで厄介だとは想像しなかったけど。猫なんて、放っておいたら、勝手に生きてるもんだと思ったのに」 p.7 「わたしはどちら…

藤谷治『船に乗れ!1 合奏と協奏』

「未来はある 空を見上げたまま、父はいった。 「それでも、未来はあるんだ」 僕は父を見なかった・ 「そうだろ?」 僕は答えなかった。 p.31 僕は何か、ただ透明な寂しさみたいなものが、胸の中に染み通っていくのを感じた。そのときは言葉にならなかった…

平田俊子「亀と学問のブルース」(『殴られた話』収録 講談社)

「同姓同名の人に会うのって初めて」 「わたしも」 「わあ。こういう顔をしているんだ」 「こういう顔かあ」 「和美って名前、わたし嫌いなんだよね」 「同じ同じ。わたしも嫌い」 「人に説明するのは簡単だけど、いい名前だねとはいってもらえないよね」 「…

平田俊子「亀と学問のブルース」(『殴られた話』収録 講談社)

子どものころ、わたしには特別な力があった。走っている車を一瞬のうちにとめることができたのだ。 p.105

平田俊子「キャミ」(『殴られた話』収録 講談社)

わたしを恋しく思う気持ちが電話をひとこえ鳴らすのだ。カズミ、どうしてる。お前と別れて俺は寂しいよ。時々無性に会いたくなる。お前を強く抱きしめたくなる。でも、俺にそんなことをいう資格はないよな。どこかで偶然会わないものかな。そしたら俺たちも…

平田俊子「キャミ」(『殴られた話』収録 講談社)

ショッキングピンクの塀の前までくると急に切なさがこみあげてきた。立ち止まって塀をなでながらあなたのことを考える。あなたはきょうこの塀にさわっただろうか。きのうやおとといはどうだろう。あなたのぬくもりが残っていないか、手をすべらせて確かめる…

平田俊子「殴られた話」(『殴られた話』収録 講談社)

妙な具合に傷ついていた。宇宙にほうり出されたみたいに、自分が誰ともつながっていないと感じた。椎名のことを思った。ひどく遠かった。何十年も昔に死んだ男のようだった。 p.54 じわじわと悔しさの水位が上がっていく。あんな女にどうして殴られなければ…

平田俊子「殴られた話」(『殴られた話』収録 講談社)

女の右腕が飛んできてわたしの首を激しく打った。鈍い音が店の中に響き渡り、居合わせた人たちが一斉にこちらを見た。女は薄笑いを浮かべている。思い知ったか、もう一発殴ってやろうかという顔だ。わたしはあわてて逃げ出した。途端に、背中に衝撃を感じた。…

原田マハ『おいしい水』岩波書店

光のさなかにいるときは、その場所がどんなに明るいか気づかない。そこから遠ざかってみて初めて、その輝きを悟るのだ。 p.11 「水?」 「そうやねん。あたし、水が湧いてくるねん」 p.33 「あたりまえや。おいしくなんかあらへん」 「結構、おいしい水や…

原田マハ『おいしい水』岩波書店

白い厚紙のマウントがすっかり古ぼけたスライドがある。泣き顔の女の子がポジフィルムに写っている。 p.5

蜂飼耳『転身』集英社

動きそうで動かない。転がりそうで、転がらない。琉々は、いくつもの眼に見つめられている気がしてきた。マリモには眼はない。藻なのだから。けれども、この丸さとしてここに在るという存在感の奥には、眼が感じられるのだった。なにか、深々とした視線のよ…

蜂飼耳『転身』集英社

ベランダで飼いはじめると鶏は、ひとまわり小さくすがたを変えた。 p.3

橋本紡『橋をめぐる いつかのきみへ、いつかのぼくへ』文藝春秋

突然蘇ってきた記憶を、友香はどう扱っていいかわからなかった。父と自分にも、あんなころがあったのだ。時が流れるうち、いろいろなことが変わってしまった。そして今も、変わり続けている。 p.34 (「清洲橋」より) 終わりだと焦っても、時間は案外残っ…

初野晴「エレファンツ・ブレス」(『退出ゲーム』収録)

「た、たいしたことはないです。コンクールの会場で一瞬、静寂を与えた程度ですから」 だいたい彼女の性格は把握できた。 p.222 高校一年の秋:「結晶泥棒」 十一月上旬の冬:「クロスキューブ」 三月初旬:「エレファンツ・ブレス」穂村千夏(チカちゃん)…

初野晴「退出ゲーム」(『退出ゲーム』収録)

「え?詳しく聞きたい?話せば長くなるよ。長すぎて呆れるほどつまんない話になるけど」 「じゃ聞かない」 「待て」 p.125 「とくにフルートが耳障りだった。俺の妹のリコーダーのほうが千倍は上手い」 「……なんですって?」 「俺の親父の鼾のほうが、穂村…

堀江敏幸「トンネルのおじさん」(『未見坂』新潮社収録)

この靴、だれのなんだろう? 根ではなくその靴を見ながら少年は問いを呑み込み、おじさんのかけ声で一気に引くと、めりめり音を立てながらロープが伸び切ってぴんと張り、醜いかたまりがわずかに持ちあがった瞬間いちばん細いところがばきんと折れて、ふたり…

堀江敏幸「プリン」(『未見坂』新潮社収録) 

ひとにあやまるのって、どうしてこうむずかしいのだろうと、悠子さんはあらためて思った。龍田さんの言葉はただしい。潔癖で、正直で、気持ちがいい。けれど、受け取るひとによって、その前置きの部分に正反対の解釈がうまれるかもしれない。そういうことを…

堀江敏幸「苦い手」(『未見坂』新潮社収録)

肥田さんは勉強が「苦手」だった。「苦手」という言い方は、じつに便利で、しかも傲慢だ。中学高校を通じて、肥田さんには「苦手」でないものなど、ひとつもなかったからである。 p.54 「そういうときには、嘘でもなにか書き入れるものだよ。じゃあ、苦手な…

畠中恵「餡子は甘いか」(『いっちばん』より)

どうして菓子屋に生まれたのに、ここまで向いていないのだ?いや生まれというより、菓子作りは栄吉がやりたい夢であった。なのに、いかに必死になっても、どうにもならない。努力が、気持ちが、見事なばかりに空回りしていく。 p.193 「いっちばん」、「い…

畠中恵「天狗の使い魔」(『いっちばん』より)

二人の姿を見て、心底ほっとしたのだ。何だかお菓子を貰ったちいさな子供のように、嬉しい。若だんなは兄や達の着物の端を、きゅっと強く掴んだ。 p.149

畠中恵「いっちばん」(『いっちばん』より)

「若だんなは栄吉さんが三春屋を離れて、寂しいんですよぅ」 「松之助さんも、嫁御と新しい店に行ってしまったし」 「だから、我らが慰めなくては」 「だからだから、若だんなの為に、お菓子を一杯用意しなきゃ!」 p.15

古川日出男『聖家族』

俺……ばば様」 「何だい?」 「時間のデッド・エンドなんだよ」 「英語だね?」 「英語だよ」 「いいかい、狗塚は没落した。家の歴史は、誰も憶えていない。お前の父さんの、あれはね、頭が良すぎる。頭が良すぎて、こう言ったよ。書いでね歴史は信じらンね!…

古川日出男『聖家族』

部屋はわずかに三畳あまりの広さしかない。 p.10

平山瑞穂『桃の向こう』角川書店

それよりは、この自分の中にたしかにあるといつでも実感できるもの、たとえ目には見えなくても、自分自身の支えとしていつまでも存在しつづけるなにかを、煌子は切望していた。 そんな煌子の中で、恋愛という現象は、どちらかというと、雑音に近いものとして…

平山瑞穂『桃の向こう』角川書店

仁科煌子とつきあったのは、大学時代の一年間にも満たない短い期間だった。 p.5

誉田哲也『武士道セブンティーン』文藝春秋

最初の言葉は、ちょっといいと思わない?正しい論理とは、誰にでも分かるような、ごくシンプルなものなんだ、っていうのは」 うん。なんかそれは、いい感じがする。なんか愉快。 p.226 『あのなぁ。そんな、高度競技化だか高速自動化だか知んないけど、そん…

誉田哲也『武士道セブンティーン』文藝春秋

我が心の師、新免武蔵は、自らの人生観を説いた『独行道』の中にこう記している。 いづれの道にも、わかれをかなしまず。 p.8

平山瑞穂『プロトコル』実業之日本社

「地球上にある幸せの合計は変わらないんだ、と俺は思っている」 p.57 そもそもわたしは、そういう席でどのようにふるまっていいかがどうしてもわからないのだ。初対面の、無作為に選ばれた相手に、自分を異性として印象づけることが暗黙のうちに目的として…