作品あ行

赤染晶子『うつつ・うつら』文藝春秋

ここでは空気も風も求めてはいけない。この街の人たちの静かな呼吸でなければならない。これを知らない芸人は窒息する。もう堪えられなくなって走って逃げる。うつつもそぞろも何人もの芸人がこの舞台から逃げるのを見てきた。二人は思っている。たまたま、…

田山朔美「裏庭の穴」文藝春秋(『霊降ろし』収録)

「なにを埋めたの」 私は小さな声で聞いた。 「なにも埋めてないよ」 嘘だ、と私は思った。 「ねえ、なにを埋めたの」 母は私を見ずに言った。 「朝子、この夢は楽しい?」 「夢?」 「そう、ここは夢のなかだよ。朝になったら消えるんだよ」 p.9 「死んだ…

田山朔美「裏庭の穴」文藝春秋(『霊降ろし』収録)

空には丸くて大きな月があった。私は手に石を持ったまま、その月を見上げていた。 p.7

ニール・ゲイマン『アメリカン・ゴッズ』下巻 角川書店

「あなたもわれわれの仲間です」ウェンズデイはいった。「忘れられていて、もう愛されてもいないし、思い出してももらえない。その点ではわれわれと同じだ。どちらの側につくべきかは明らかです」 p.32 小説を読むと、ほかの人間の頭のなかへ、ほかの場所へ…

ダニロ・キシュ「赤いレーニン切手」(『死者の百科事典』収録)東京創元社

過ぎたことは過ぎたこと。過去は私たちのうちに生きていて、消し去ることなどできません。 p.173 味わいが見事にバラバラの愛と死をテーマにした九つの物語が収録。元ネタが分かっていて読んだのがよりいっそう深く味わえるのだろうけど(作者自らによる作…

ダニロ・キシュ「王と愚者の書」(『死者の百科事典』収録)東京創元社

こうして、ルネッサンスの王子の教育のために書かれた一冊の参考書は――ジョリーの哲学的な輪廻を経てニルスの歪んだ鏡で屈折し――現代の独裁者の手引きとなるのだ。ニルスからの数例とその文章の歴史的な反射は、この文献の影響を物語っている。 p.157〜158

中島京子『エ/ン/ジ/ン』角川書店

「あっちゃんて、誰なんですか?」 「あっちゃんは、エンジンよ」 p.60〜61 おそらくとくに装飾的なフレーズではなかったのだろう。ある種の時間を言い表そうとすると、そんな言葉になるのかもしれない。人生の、まだ若い時期には、誰にとっても、ご褒美の…

中島京子『エ/ン/ジ/ン』角川書店

お父さんは、それはものすごいエンジンカだったのよ。 それだけを聞かされて少女は育ったという。エンジンカの説明を、母親はあまり上手にしてくれなかった。 p.5

井上荒野『雉猫心中』マガジンハウス

猫の影。それは、わたしにとっては、待つ、ということと結びついている。猫は簡単にいなくなるからだ。野良猫はもちろん、飼い猫であっても、ある日、いつものようにふらりと出かけて、そのまま帰ってこなくなる。わたしは窓から目が離せなくなる。そこに、…

井上荒野『雉猫心中』マガジンハウス

ハル、ハルという声が聞こえてきた。 p.5

山崎ナオコーラ「お父さん大好き」(『手』文藝春秋収録)

「いたわり」という感覚が全ての人間に備わっているのは不思議だ。 落ち込んでいるときには必ず、周りの人から励まされる。 悩み事など決して相談しないような遠い相手から、急に優しくされるのだ。 さんさんとふりそそぐ日光のように。 p.127 自分のレゾン…

道尾秀介「悪意の顔」(『鬼の跫音』収録)

「それなら、その子をここに入れてしまえばいいじゃない」 p.210

鹿島田真希「女の庭」(『女の庭』収録 河出書房新社)

こうして私は普通の主婦に堕落していった。独身時代に、穏やかだと思って私を魅了した夫は、堕落した主婦を製造する装置だったのだ。 p.16 そして私はまた、井戸端会議に参加するのだ。主婦たちと話していると、私は生きていると実感する。このつまらなさ、…

鹿島田真希「女の庭」(『女の庭』収録 河出書房新社)

息がつまる。母、母、母親に囲まれていて、私は息をつまらせている。別に私には特別なところはない。自分はいい意味でも悪い意味でも、普通の主婦だ。どういうところが普通かと聞かれて、答えていたらきりがないけれども。だって、普通であることを、当たり…

北山猛邦『踊るジョーカー』東京創元社

「いいか悪いかの問題ではないな。やらなきゃいけない。それが『正しい』ってことだ」 「名探偵は『正しい』?」 「そうとは限らないが……」 人生を懸けたトリックで他人を殺害し、運命を変えようとする人々。探偵はその運命を矯正する力を持つ。それだけに躊…

原田マハ『おいしい水』岩波書店

光のさなかにいるときは、その場所がどんなに明るいか気づかない。そこから遠ざかってみて初めて、その輝きを悟るのだ。 p.11 「水?」 「そうやねん。あたし、水が湧いてくるねん」 p.33 「あたりまえや。おいしくなんかあらへん」 「結構、おいしい水や…

原田マハ『おいしい水』岩波書店

白い厚紙のマウントがすっかり古ぼけたスライドがある。泣き顔の女の子がポジフィルムに写っている。 p.5

津村記久子「アレグリアとは仕事はできない」(『アレグリアとは仕事はできない』収録 筑摩書房)

こいつにどうにかして思い知らせてやりたい、と考える。人ならば可能だ。人ならば。 p.11 始末に負えないのは、悪意よりも扱いにくい。痛みにまで達するようなアレグリアによる信頼の裏切りへの悲嘆がミノベの中にあることだ。 p.12 ミノベに言わせると、…

津村記久子「アレグリアとは仕事はできない」(『アレグリアとは仕事はできない』収録 筑摩書房)

万物には魂が宿る。ミノベの信仰にはそうある。万物に魂は宿る。母体の下の口から、あるいは殻を破り、あるいは分裂し、あるいは型を抜かれ、あるいは袋に詰められ、あるいはネジをとめられ、あるいはネジと一緒に梱包され、万物の命は生まれる。そこに魂は…

図子慧『駅神ふたたび』早川書房

そうだねえ、兄貴ってのは妹の永遠の味方だね」 p.111(第二話「妹の恋人」より) 「そんな歴史があったんですか」 「なんだって歴史があるんだよ。年寄りがいなくなると、古い話は消えちゃうのさ」 p.217(第五話「進退伺い」より) 大家さんのミヤコさん…

近藤史恵「猪鍋」(『寒椿ゆれる』光文社より)

「あんたは馬鹿だねえ」 「馬鹿とはなんだ」 「女には、女の意地ってもんがあるんだよ。惚れているからこそ、その相手に良縁があれば、ごねてみっともないところを見せたくないんじゃないか。家柄だけで鼻持ちならない相手というのなら、まだ負けたくない気…

井上荒野「石」(『あなたの獣』収録 角川書店)

「あなたは、いつも、どこにもいなかった。私が本当に許せなかったのはそのことなのよ。食事をしていても、子供を抱いていても、私の足の爪を切ってくれるときだって、あなたはいなかった。もうずっと前から、気がついていたわ。あなた、私が気がついている…

初野晴「エレファンツ・ブレス」(『退出ゲーム』収録)

「た、たいしたことはないです。コンクールの会場で一瞬、静寂を与えた程度ですから」 だいたい彼女の性格は把握できた。 p.222 高校一年の秋:「結晶泥棒」 十一月上旬の冬:「クロスキューブ」 三月初旬:「エレファンツ・ブレス」穂村千夏(チカちゃん)…

椰月美智子「甘えび」(『枝付き干し葡萄とワイングラス』収録 講談社   

まったく、うんざりだと思う。今見ているこのくだらないテレビ番組も、子どもの汚れた上履きも、夫の丸みを帯びた首も、鏡にうつる目尻のしわも。私はなんでこんなことに気付いてしまったんだろう。気付いてしまった自分にがっかりだ。 人は毎日生まれて、毎…

畠中恵「餡子は甘いか」(『いっちばん』より)

どうして菓子屋に生まれたのに、ここまで向いていないのだ?いや生まれというより、菓子作りは栄吉がやりたい夢であった。なのに、いかに必死になっても、どうにもならない。努力が、気持ちが、見事なばかりに空回りしていく。 p.193 「いっちばん」、「い…

畠中恵「いっちばん」(『いっちばん』より)

「若だんなは栄吉さんが三春屋を離れて、寂しいんですよぅ」 「松之助さんも、嫁御と新しい店に行ってしまったし」 「だから、我らが慰めなくては」 「だからだから、若だんなの為に、お菓子を一杯用意しなきゃ!」 p.15

矢川澄子『おにいちゃん 回想の澁澤龍彦』筑摩書房

引込思案の少女にははじめのうち、少年をどうよんでいいかわからなかった。でも、親しむにつれて思いついた。ここでは全員がおにいちゃんとよんでいるのだから、自分もそうよばさせてもらおう、と。娘ばかりの家で現実におにいちゃんを一度も有ったことのな…

恩田陸「悪魔を憐れむ歌」(『不連続の世界』収録)幻冬舎

「あなたは常にパッセンジャー。通り過ぎるだけの人間。自分でも分かっているくせに」 P.124

海堂尊『医学のたまご』理論社

『科学の前では大人も子どももない。自分でやったことの責任はとらなければならない』。この点、パパは絶対に正しい。だが、パパが本当に言いたかったことは残りの半分だ。それをこれから言おう。 カオル、科学を前にしたら大人も子どももない。人の命に関わ…

海堂尊『医学のたまご』理論社

僕の名前は曾根崎薫。桜宮中学の1年生。 p.6