矢川澄子『おにいちゃん 回想の澁澤龍彦』筑摩書房

 引込思案の少女にははじめのうち、少年をどうよんでいいかわからなかった。でも、親しむにつれて思いついた。ここでは全員がおにいちゃんとよんでいるのだから、自分もそうよばさせてもらおう、と。娘ばかりの家で現実におにいちゃんを一度も有ったことのない少女にとっては、このことばを口にすること自体、ひそかな快感でありスリルであった。
 妹たちが減ってさびしくなってゆく家で、少年はこうして親身の妹以上の妹を代りに得たのだった。年下の女の子をたえず身近に従えていた幼時の習慣はそのまま引き継がれた。  p.10

別れぎわ、二人はおのずと握手しあっていた。顔と顔がすこし近づいた。少女はとっさにのび上って、ささやいた。
「もう一度だけ、おにいちゃんとよばせてね」
 くしゅんと、声にならない笑い声がした。
 あれはほんとに最高のあかるいたまゆらではなかったか。少女はいまでもそう思っている。  p.13

 少年の出現をまちうける条件は、Iのなかで、かくして完全にととのっていた。
 「瞠目しながら、アッシェンバッハは、その少年が完全に美しいのに気がついた。」
 七月の日ざかり、Jの曲り角をまがったとたんに、Iの眼前にそのようにしてふいにあらわれたものは、まさにひとつの典型ではなかったか。
 まるで高貴なけだものの仔だ。  p.32

「人並みの幸福を追うのはやめようね」
と遠くを見つめる目でくりかえしIに語ってきかせる彼は、すでに夏の日の美しいけだものの仔以上の何者かであったのだ。  p.35

 先に逝ったひとは幸せだ。問うても答えの返ってこない空しさからだけは、少なくとも免かれていようから。  p.39

 鬼火か、それとも燠火か。酒盛りの日々に先立つ五〇年代の半ば、たたなわる闇をまえにIだけが垣間みせてもらったひとつの精神(ガイスト)の産屋の火だ。この光を見失ってはならない。これだけがIの手にのこされた彼の貴い形見かもしれないのだから。  p.45

 

 なぜって、思い出はとても充実しているのです。二十代の半ばから三十代の終りにかけて、二人とも、いちばんいい時期に、かけがえのない相手にめぐりあって、またとない甘美な幾年を過したという思いは、ちょっとやそっとで崩れ去るものではありません。なぜってそれは、まぎれもないわたくしの青春であり、故人の、そして二人の青春だったのですから。
 ほんとうになつかしいものは、いつになってもやっぱりなつかしいものです。  p.64〜65

  むかしむかし、ひとりの少女とひとりの少年がなかよくなって、いっしょに暮しはじめました。二人のあいだにはやがて、幾冊かの本が生まれました。  p.65

 少年が当時、はたして何を思い、何を考えていたのか、いまとなってはたしかめるすべもなく、すべては少女のゆがんだ脳髄の、幻想の産物かもしれないのですから。
 そう、そんなこと、いまとなってはどうでもよいのです。故人もかねて好んでいっていた通り、すべてはただ夢にすぎないのでしょう。わたくしもただ、わたくしなりにその時その時の夢に生きてきただけです。
 それにしてもたのしい夢でした。むかしむかし、ひとりの少年にあやつられ、少女の見せてもらったその夢は。  p.75

 字体の新旧にこだわったからといって、これは結局自分の名前なればこそであって、同世代の一部の人びとのようにあくまで戦前の旧仮名を墨守するといった保守性は澁澤にはなく、その点はさっぱりした合理主義者であった。  p.93

 −そんなことをいったら嫌われる?そう、その心配もさることながら、半面これは少女のもって生まれた気質に深く阿る選択でもありました。少女はなんといっても自己犠牲が好きであり、みずから母になることを拒んでまでも、目のまえの少年を仮想の母として庇うことを無意識のうちにえらんだのでした。  p.182〜183

 かつての伴侶だった澁澤龍彦と過ごした日々を綴ったエッセイ集。文章として綴れなかった思いに圧倒される。永遠の少年と少女。もっと早く読めばよかった。