鹿島田真希「女の庭」(『女の庭』収録 河出書房新社)

 こうして私は普通の主婦に堕落していった。独身時代に、穏やかだと思って私を魅了した夫は、堕落した主婦を製造する装置だったのだ。  p.16

 そして私はまた、井戸端会議に参加するのだ。主婦たちと話していると、私は生きていると実感する。このつまらなさ、これが生きている証拠なのだ。生きるということは、暇をもてあますことなのだ。  p.31

式を挙げて、二人だけのアパートに引越しをして、同居して、家事をする。度重なる通過儀礼によって魂の傷は塗り固められ、常套句のようないい思い出が残った。主婦になって、自分が特別不幸な女でも、幸せな女でもないと気がついて、自分は宝物のように育てられた、遊園地は楽しかったと思っていたのだ。  p.51

それは魚の骨のように小さく、そこから受けた痛みと恥は、なかなか取りづらく、小さなものであるにもかかわらず、癒しがたい。そういうものであるように、私は願うのだ。
 いいえ、小さな傷であるからこそ、癒しがたいのよ、と私は呟いてみる。だってそうよ。小さな傷は自分にしかわからないものだもの。小さすぎて、他人にはわからないものだもの。大きな傷だったら皆が気づく。そしてその傷を癒そうと誰かが助けてくれる。だけど魚の小骨が刺さった程度だと、自分でも忘れてしまうぐらいだ。だから、それは痛みですらないのかもしれない。違和感。ただそれだけ。癒しがたい違和感を自分とナオミは抱えているのだ。  p.52

 私はナオミを見つめる。語りえない哀しみを抱えているのは自分だけではなかったのだ。私はナオミに自分を見る。何人もの女の姿を見る。私はやっと本当の意味で自分をありふれた女だと思うことができるようになったのだ。その女は、別に料理ができるわけでもない、井戸端会議を開くわけでもない。ただ、悲嘆にくれて、夜中に歌を口ずさむ女、そういう女だった。  p.75〜76