橋本紡『橋をめぐる いつかのきみへ、いつかのぼくへ』文藝春秋
突然蘇ってきた記憶を、友香はどう扱っていいかわからなかった。父と自分にも、あんなころがあったのだ。時が流れるうち、いろいろなことが変わってしまった。そして今も、変わり続けている。 p.34 (「清洲橋」より)
終わりだと焦っても、時間は案外残っている。取り返しがつかないと思ったことだって、まだ間に合うのかもしれなかった。 p.47 (「清洲橋」より)
たまに小名木川沿いを歩くと、水路のはるか向こうに、巨大なビルが見える。おそらくは日本橋辺りだろう。近くには銀座がある。自分はもう、向こう側の人間ではないのだ。 p.59(「亥之堀橋」より)
嘉人と一緒に歩きながら陸は考えた。諦めきれないだけなのか。ありもしない奇跡を願っているのか。 p.102 (「大富橋」より)
「近いんだよな、本当は」
嘉人がぽつりと漏らした。その意味を、陸はそっくり理解した。同じことを考えていたからだ。
そうだな、と頷いた。
「一キロも離れてないよ。今から清洲橋を渡ったら、五分やそこらで着く」
「ああ、たったの五分だ」
風が吹いた。潮の香りがした。大きな船と、小さな船が、上流へ向かっていった。
「俺、すごく長い五分に思える」
「永遠みたいだよ」 p.103(「大富橋」より)
「陸、大丈夫か。いけそうか」
「かなりやばい。落ちそうだよ」
「もしおまえが落ちたら、俺が助けてやる。心配すんな」
「助けるって、どうやって」
「堤防から跳んで、空中で受け止める。そして格好良く着地する」
「できるわけがないだろう」
「おまえだけは絶対に助けてやるよ」
そんなことを話しながら、堤防の上を歩いた。左側には高層ビルがあった。右側には倉庫街があった。 p.107(「大富橋」より)
昨日と今日が、明日も続くわけじゃないんだ。僕たちはいつ失うかわからないんだ。 p.133(「大富橋」より)
いつか陸も嘉人もどこかにたどり着くだろう。それがどこかはわからない。素晴らしい場所かもしれないし、違うかもしれない。だけど、たどり着くことだけは間違いない。そう、こんなふうに歩いてさえいれば。 p.141(「大富橋」より)
大人になるとは、こういうことなんだろうか。現実を知り、自分を知る。けれど、そのあいだに、ぽろぽろ落としてしまったものがあるのではないか。拾い直したい、と美穂は思った。落としたものを。失ったものを。 p.222(「まつぼっくり橋」より)
橋の手前で、エンジは立ち止まった。
「行こうか」
「うん」
「渡るぞ」 p.279(「永代橋」より)
空いている右手で、千恵は永代橋の欄干に触ってみた。たくさんのでこぼこがあって――リベットというのだとエンジが教えてくれた――それに触れるたび、頭ではなく、手のひらが膨らみを記憶していった。この感触は、ずっと残る。そう思った。頭で覚えたことは忘れてしまうかもしれないけど、体で覚えたことは決して忘れないだろう。
「気が向いたら来い」
「うん」
「気が向かなかったら来なくていい」
「うん」 p.279(「永代橋」より)
「俺はずっとここにいる」
エンジは言った。
千恵は頷いた。
「うん」 p.280(「永代橋」より)
「清洲橋」「亥之堀橋」「大富橋」「八幡橋」「まつぼっくり橋」「永代橋」の6編収録。「大富橋」「永代橋」「八幡橋」「まつぼっくり橋」の話が好きー。