宮木あや子『泥ぞつもりて』文藝春秋

 年老いた女は、もはや爪の先ほどの大きさになった、かつての熱い大輪の花弁を愛しく思う。恋は池の底に溜まる泥のように形を持たないけれど、いつまでもそこに留まりつづけ、消えることはない。
 かきつばたの夕闇はいつしか去りゆき、女は遠く夜の帳で、男の文を枕に黄金色の夢を見る。  p.6(「泥ぞつもりて」より)

 全てを手に入れれば、あとは失ってゆくだけだ。麗景殿は正しい。何もかもが崩れてゆくなか、支えもなしに一人で立っていられるわけがない。そんなことは判っている、でもだから、どうしろというのか。p.67〜68(「泥ぞつもりて」より)

 執拗に益はくちづけを繰り返す。呼吸は一向に整わない。息を弾ませたまま、観念して益の背中に腕を回す。求めて、与えられて、満たされるということがこんなに心地良いことだとは。益の汗の匂いと香の匂いと、隙間風が運んでくる夕暮れの匂いが貞明の満たされた心をかき乱す。のしかかる男の身体の重みがもたらす充足に目を瞑り、このまま今の美しい夕暮れが、悠久の川のようにつづけば良いと願う。  p.70(「泥ぞつもりて」より)

 既に日が落ちた茜空、しんとした夜御殿で、貞明はひとり益から受けた愛撫の余韻に浸った。冷たい畳に仰向けに転がり、天井の格子模様を見つめる。自分の身体と、その上にあるものの隙間が大きすぎて、何もないのに何かに押しつぶされそうになり、跳ねるように起き上った。  p.70(「泥ぞつもりて」より)

女が増えればここは物の怪の巣窟じゃ。誰もが主上のことを待ち、焦がれ、子を産もうとする。先に子を産んだ女を蹴落とそうとする。その中でも高子のように、中宮になることだけがなにも生き残る道ではないからな、それを忘れずに憶えておくと良い」  p.86

 やっと手に入れた。もう離さない。  p.92(「泥ぞつもりて」より)

 その言葉が益に向けられたものなのか自分にむけたものなのか判らなかったが、紀君は夢の中、黄金色の草原の中で一人、幸せで気が狂いそうになり、泣き崩れた。  p.97(「泥ぞつもりて」より)

 夜の波は深く強く二人を彼方まで押し流し、もう二度と現世には戻って来られないかもしれないように感じる。でも、そうなってくれれば良いのにと高子は願う。二人でどこか、誰にも邪魔をされずに静かに生きてゆきたい。
 壁代に漣のように影の揺れる。鵺の鳴きつづける夜が、嗚呼、いつまでも、どこまでも。

 ……終わらなければ良いのに。
 そう願っても、永遠につづくものなどなく、薄ぼらけた朝は早々にやってきて、男は朝露が落ちるようにいなくなる。女にとっては、また次の夜をよすがに生きる日々が始まる。辛い、寂しいと思っても次に会える夜が早まるわけではないので、高子は心の中で業平の存在を忘れようとする。  p.126(「凍れるなみだ」より)

業平だけは一際、なにか異形のもののように高子の目に映った。男が高子を見る。高子も男を見る。目をそらすこともできず、見つめ合った二人の間には一筋の風が通った。そして視界に花のような紗がかかる。 p.127(「凍れるなみだ」より)

 月の満ち欠けは、女の身体や心と似ている。波のように、育ち、なくなり、また育つ。  p.168(「凍れるなみだ」より)

 ……魂は、育ち、なくなり、また育つことができるのだろうか。
 逃げたのも夜ならば、捕まったのも夜だった。検非違使の点すかがり火が近付いてくる恐怖は、目を閉じればまだありありと思い出せる。  p.168(「凍れるなみだ」より)

涙が溢れる。惟仁はおそらく高子のことを愛したりしないだろう。救ってくれと言った。救うために、天子となる子を産むこと。それ以上のものはきっと求められない。業平と過ごした幾多の夜のように、惟仁に求めたり、求められたりすることはないのだ。痛くて、辛くて、かつては若かった自身を春の野分のように思い出す。
 主上、なぜ五節舞の夜、わたくしの櫛を選んでくださらなかった。  p.173(「凍れるなみだ」より)

この少年は神であり、そして自分より十近くも年下で、二人の間には寄り添いあう心は介在していないのだ。何より、簡単に高子が心変わりしてしまえば、あの逃亡の夜をきっかけに、遠くにやられてしまった業平はどう思うだろう。  p.175(「凍れるなみだ」より)

せめて罰を与えてくれれば、その澱も清められたであろうに、高子の心は未だに濁りつづけている。
 赦されることはない。罪を負い、罪人として生きるのが自らのさだめなのかもしれない。  p.187(「凍れるなみだ」より)

幼いころ、同じ色をして、懐かぬ猫のように暗闇で目を光らせている美しい少年を見た。  p.210(「東風吹かば」より)

 まだ、花を咲かせることはできる。高子は水鏡を覗き込み、思う。まだ自分は美しい。三十年近く前、業平の心に矢を放ったころとは違い、肌の中はきっと熟れて甘いだろう。一人寝にはまだ早いのに、高子には今、通う男がいない。寒くて、凍えそうだ。  p.223(「東風吹かば」より)

灰になるまで女とは良く言ったものだ。身体の奥には、遥か昔に消えてしまった赤い炎がちらちらと舌を出す。あとどれくらいで心と身体は灰になるのだろう、と高子は寝具に横たわり、灯台の小さな炎に揺れる天井を見つめる。  p.239〜240(「東風吹かば」より)

これまで死んでいった男たちの血は、高子の腹を介して今も生きている。そう思い、ふと怖くなった。子を産めば、善祐が死んでしまうのではないかと。  p.262(「東風吹かば」より)