作品た行

宮下奈都『遠くの声に耳を澄ませて』新潮社

そのときの様子がありありと目に浮かぶ。私を膝に乗せて話してくれたのは、たぶん祖母とふたりでじゅうぶんに楽しんだその後だったに違いない。どこにも出かけたことのなかった祖父母に豊かな旅の記憶があったことに私は驚き、やがて甘い花の香りで胸の中が…

田山朔美「霊降ろし」文藝春秋(『霊降ろし』収録)

信じるかそれとも信じないか。結局のところ、差はそれだけなのかもしれない。だとしたら、私は信じたくない。信じてしまったら存在する。そうなったら、こちらの世界に引っかかりのすくない私は、あちらの世界に引きずり込まれて戻ってこられなくなる気がす…

柳広司『虎と月』理論社

けれどぼくは、この旅の前と後で、自分がすっかり変わったことに気づいていた。 ぼくは、父には合えなかったが、父がなぜ虎になったのか(ここまで傍点)その謎を自分で解き明かしたのだ。 それは、ぼくがこれからの人生を生きていくために必要な、自分なり…

柳広司『虎と月』理論社

――父は虎になった。 幼いころから、そう聞かされて育った。 p.4

山崎ナオコーラ「手」(『手』文藝春秋収録)

ストロベリー味は、現実の苺とは似ても似つかないものだが、日本人が共通して持っている「お菓子の苺味」というものの、明るく薄っぺらい風味がして、頭を撫でられている気分になる。 p.21 私にとっては、こういう男は意味があるというか、いて欲しいという…

中島桃果子『蝶番』新潮社

こうして無邪気に虹は主役を奪っていく。今は菓子から。時々ナメから。 理解して欲しくて理解してもらえるから、人は人前で涙を流すんとちゃうんか。 p.60 あたしや菓子が大人になってきたように、虹だって、ナメだって、大人になっていくんや。というか、…

中島桃果子『蝶番』新潮社 

その出来事は突然にやってきた。なんの前触れもなく。 p.3

蜂飼耳『転身』集英社

動きそうで動かない。転がりそうで、転がらない。琉々は、いくつもの眼に見つめられている気がしてきた。マリモには眼はない。藻なのだから。けれども、この丸さとしてここに在るという存在感の奥には、眼が感じられるのだった。なにか、深々とした視線のよ…

蜂飼耳『転身』集英社

ベランダで飼いはじめると鶏は、ひとまわり小さくすがたを変えた。 p.3

津村記久子「地下鉄の叙事詩」(『アレグリアとは仕事はできない』収録 筑摩書房)

何か、保存しておかなければいけないエネルギーを、通勤の作法に使ってしまったような気分になる。 p.137 電車は暴力を乗せて走っている、とミカミはときどき思う。自動車のような、ある種能動的な暴力ではなく、胃の中に釘を溜め込むように怒りを充満させ…

辻村深月『太陽の坐る場所』文藝春秋

「太陽はどこにあっても明るいのよ」 p.11(「プロローグ」) 私、嫌だけどなぁ。一生、自分の本当の居場所はここじゃないって思いながら生きていくのなんか」 p.24(「出席番号二十二番」) あの頃の彼女は冷静だった。 流されなかった。 多分、一度とし…

長嶋有『電化製品列伝』講談社

レコードプレイヤーなんてのはもう、その物にあらかじめノスタルジーが織り込まれてしまっていて、読むのもイヤだ(変な人)。電動鉛筆削りやズボンプレッサー、そういうのを語りたいのだが。 p.77(吉本ばなな「キッチン」のジューサー) 家に新たな電化製…

赤坂真理/大島梢(画)『太陽の涙』岩波書店

死者も生者も、等しく死を経て生み出される。神々の錬金術で僕らは溶ける。とろりと流体金属のように。 沈まぬ 太 陽 そこから僕らはしたたり落ちた、太陽の涙。涙は魂がたったひとつ記憶している唄を奏でる。僕と、恋人と。僕らと共に落ちた多くのしたたり…

赤坂真理/大島梢(画)『太陽の涙』岩波書店

僕らは太陽の涙。 太陽が泣きこぼす、熱いしずくが固まってできた。 僕らの島、そして僕らの体も。 p.7

川上弘美「どこから行っても遠い町」(『どこから行っても遠い町』新潮社より) 

おれは、生きてきたというそのことだけで、つねに事を決めていたのだ。決定する、というわかりやすいところだけでなく、ただ誰かと知りあうだけで、ただ誰かとすれちがうだけで、ただそこにいるだけで、ただ息をするだけで。何かを決めつづけてきたのだ。 お…

真藤順丈『地図男』メディアファクトリー

あふれている。 物語が横溢している。 p.54〜55 地図男が地図帖を開くとき。 物語を、地図男はだれに語っている?(全てに傍点) p.60 巡礼と。 記録、か。 p.128 反復する言葉、集積する物語。登場人物たちの移動の線分と、感情の軌跡。記録されることで…

真藤順丈『地図男』メディアファクトリー

地図帖||148頁ほか「あるひとりの子どもが、音楽に祝福されて産まれた。 p.3

米澤穂信「玉野五十鈴の誉れ」(『儚い羊たちの祝宴』新潮社 より)

「わ、わたし、わたしは。あなたはわたしの、ジーヴスだと思っていたのに」 暗い夜のせいで見間違えたのだろうか。ほんの少し、五十鈴の表情が動いた気がした。 「勘違いなさっては困ります。わたくしはあくまで、小栗家のイズレイル・ガウです」 p.181

初野晴「退出ゲーム」(『退出ゲーム』収録)

「え?詳しく聞きたい?話せば長くなるよ。長すぎて呆れるほどつまんない話になるけど」 「じゃ聞かない」 「待て」 p.125 「とくにフルートが耳障りだった。俺の妹のリコーダーのほうが千倍は上手い」 「……なんですって?」 「俺の親父の鼾のほうが、穂村…

吉田修一「旅たびたび オスロ」(『あの空の下で』木楽舎刊より)

郊外の小さなカフェに立ち寄って、何を期待したというわけではなかったが、普通だなぁと、ふと思った。旅先で見つける普通というのは、なぜこんなにも愛おしいのだろうか、と。 p.100

堀江敏幸「トンネルのおじさん」(『未見坂』新潮社収録)

この靴、だれのなんだろう? 根ではなくその靴を見ながら少年は問いを呑み込み、おじさんのかけ声で一気に引くと、めりめり音を立てながらロープが伸び切ってぴんと張り、醜いかたまりがわずかに持ちあがった瞬間いちばん細いところがばきんと折れて、ふたり…

椰月美智子「七夕の夜」(『枝付き干し葡萄とワイングラス』収録 講談社)

かなえはこの夜に、自分というものは自分でしかあり得ない、ということを悟った。たとえ自分で選択できなかったとしても、自分の気持ちだけは、他人に侵されないことを知った もちろん、そういうふうに意味付けできたのは、かなえがいろんなことを自分で選択…

椰月美智子「たんぽぽ産科婦人科クリニック」(『枝付き干し葡萄とワイングラス』収録 講談社)

繭子は振り返って、たんぽぽ産科婦人科クリニック、と書いてある黄色い看板を眺める。そして、縮図、と声に出して言ってみた。 p.78

椰月美智子「と、言った。」(『みきわめ検定』収録 講談社)

「セミが鳴いてる、と、言った」 「えっ、本当?」 孝太郎は耳を澄ませてみる。でもセミの声は、ぜんぜんきこえなかった。防音ガラスが二重になっているし、このあたりは緑が少ない。でも、もちろん外ではセミが鳴いているだろうと思う。 「鳴いてるよ」兼治…

畠中恵「天狗の使い魔」(『いっちばん』より)

二人の姿を見て、心底ほっとしたのだ。何だかお菓子を貰ったちいさな子供のように、嬉しい。若だんなは兄や達の着物の端を、きゅっと強く掴んだ。 p.149

小池昌代「つの」(『ことば汁』収録)中央公論新社

たしかに先生の詩はもうすでに「息」であった。何か書けばそれがそのまま、吐く息である。もう、そこには言葉があるという感じすらない。 読んでいると、わたしはただ、おいしい空気を吸っているような気分になったものだ。どこにもあざといところはなく、技…

田中啓文『チュウは忠臣蔵のチュウ』文藝春秋

「忠義とはかくも滑稽で、かくも虚しいことであったか、と笑うておる。おもしろうてやがて悲しき鵜飼いかな、じゃ。君の心、臣下は知らず、とはこのことじゃ。 p.370 あー面白かった。この作者らしいダジャレも散りばめられ、トンでも愉快な忠臣蔵ながら「……

田中啓文『チュウは忠臣蔵のチュウ』文藝春秋

(パンッ) お早々からのおつとめかけでありがたくお礼申しあげまする。 ただいまから申しあげまするは、全国いずれの国々、谷々、津々浦々へ参りましても、御なじみ深きところの、元禄快挙録は忠臣蔵のおうわさにございまする。 p.6

舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』下巻 新潮社

それから俺は俺の中の黄金律を思い出す。 全てに意味がある。 p.64(「第四部 方舟」より) 世界は人の信じるように在り、その世界観は絶えず他人によって影響され、揺らいでいる。<<意識>>が時空を変形させるという現象もその一つなのだ。 p.94(「第…

舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』下巻 新潮社

僕の名前は踊場水太郎。<<踊場>>は、英語に直訳するなら<<ダンスホール>>だろうけど日本人的には階段の途中、曲がり角にあるあの比較的広くて平たいあそこのことだ。 p.4