宮下奈都『遠くの声に耳を澄ませて』新潮社

 そのときの様子がありありと目に浮かぶ。私を膝に乗せて話してくれたのは、たぶん祖母とふたりでじゅうぶんに楽しんだその後だったに違いない。どこにも出かけたことのなかった祖父母に豊かな旅の記憶があったことに私は驚き、やがて甘い花の香りで胸の中が満たされていくのを感じていた。  p.23(「アンデスの声」より)

「……陽子ちゃん?」
「あはははは」
 調子がよくないんだな、と思う。よくないときに限って笑う。湿っているときに限って乾いた声を出す。  p.26「転がる小石」より

 瑞穂を思い出そうとして目に浮かぶのは、みのりの笑顔だ。みのりはたぶん瑞穂に似ている。似ているから好きなのではなく、好きな子がたまたま似ていた。――思わず笑ってしまう。こういうのを、好きなタイプっていうんじゃないか。北陸の低く曇った空みたいにいつもそこにあって、何か持っていそうな、今にも何かを降らせそうな、ときどきは重たくてうっとうしいような。そんなタイプだといわれてよろこぶはずもないけれど。
 みのりが跳ねるところを見たい。跳ねずにおとなしいまま暮らしていくのだとしても、僕はそれを近くで見届けたいと思う。  p.77「秋の転校生」より

「結局、私には何もわからなかった。うなぎが生まれて死んでいく場所も、自分が何のために生まれて死んでいくのかも、わからないままです。ただただあちらの海、こちらの海、と航海し続けて、気がついたらこんな歳になっていました」  p.96「うなぎを追いかけた男」より

探しても見つからない。考えてもわからない。そういう大きなものに押しつぶされないように私たちはただ生きていく。ただ食べ、ただ眠り、ただ夢を見て、看護をし、看護され、ある者はうなぎを追いかけて。時間切れになる前に、どこかにたどりつけるのか、何かを見つけられるのか、たぶん誰にもわからない。  p.97「うなぎを追いかけた男」より

私はひとりでどこへでも行ける。そんなことも忘れていた。  p.114「部屋から始まった」より

これが、あの薬の効果だろうか。それとも、もしかしたら、この旅の。今朝、成田を飛び立ったところから始まった短い旅が、もう私を変えている。  p.114「部屋から始まった」より

「ごめん」
 彼はいった。裏切ったのではない。ただそこにある事実に気がついてしまったというだけのことだ。彼がすべてを賭ける対象は恋ではなかった。私ではなかった、というべきか。朱鞠内湖を眺めるうちに、それがわかってしまった。恋人が色を失ったから、世界も色を失ったのだ。何ひとつ語るべき言葉を思いつくことができなかった。
 悲しさや寂しさ、ましてや怒りより、困惑のほうが強かった。行き違いや衝突があったわけでは決してない。それなのに、こういう結果にしかたどりつけなかった。これでもう終わりなのだとふたりとも知ってしまっていた。  p.164「クックブックの五日間」より

「一冊の本を読んで人生の謎が解ける、あるいは解けたような気持ちになる、というのはわかる気がします」  p.168「クックブックの五日間」より

 今でもときどき、ふと夢想することがある。もしもあのとき朱鞠内湖へ行かなかったら、あの冷たく輝く湖をふたりで見なかったら、と。ただの夢想だ。私には私のこの人生こそがふさわしかったという自負がある。でも、どんな人生もありだったと今は思うのだ。たとえば裕福な実家の援助を絶たなかったら、あるいは親の選んだ人と結婚していたら。
 夢想の果てに、いつも日に焼けていた彼が遠くの海に出かけるときに、いってらっしゃいと手を振る自分の姿が見えるような気がするときも、あるのだ
。  p.168〜169「クックブックの五日間」より

「紅茶は、どちらかというと、振り返るための飲みものなんじゃないかなあ。何かをひとつ終えた後に、それをゆっくり楽しむのが紅茶」  p.183「ミルクティー」より

 誰かの顔が見たい気持ち、何かをしてあげたいと願う気持ち。気づかせてくれてありがとう。恋ではなくても、たとえ女同士であったとしても、それはたしかに存在する。ぴんとは来なくても、じわじわと来る。ミルクティーのたてる湯気のように。  p.187「ミルクティー」より

「いいね、温泉」
 ほんとうなら温泉へ、欲をいえばできるだけ人に会わずにすむような場所へ、ひとりで出かけていってそこにしばらくとどまりたい、けれども、屋上からの景色を眺めるだけで――夕焼けの中のカシコに手を振っただけで――少し遠くまで出かけたような心持ちになっていることに気づく。  p.221「夕焼けの犬」より

 いろんな人にいろんな生があって、そこに触れるたびに畏れを感じる。共振しすぎるとよくない、背負わないようにしよう、と思いながら、ほんのいっときだけ患者の生を旅してきたような錯覚に陥ることもある。もうすぐ河口へたどり着こうとしている生がほとんどだとしても。その気配を、ゆるやかに携え、暴れようとするものは整理をし、そうやって生きていくしかないのだろう。  p.222「夕焼けの犬」より