長嶋有『電化製品列伝』講談社

 レコードプレイヤーなんてのはもう、その物にあらかじめノスタルジーが織り込まれてしまっていて、読むのもイヤだ(変な人)。電動鉛筆削りやズボンプレッサー、そういうのを語りたいのだが。  p.77(吉本ばなな「キッチン」のジューサー)

 家に新たな電化製品がやってくること、それ自体に高揚があるのだと思う。「便利さ」もだけど、それ以前にただの「変化」がもたらされるということが象徴される。観葉植物の鉢植えを持ち込むのより、変化を自ら指向した感じもする。それはなぜかというと、電化製品が安い物ではないからだ。安くない金額を一時に、自分(の暮らし)に投じた。そのことの高揚。  p.79(吉本ばなな「キッチン」のジューサー)

 今、テレビや掃除機と、ミニコンポとパソコンを分けて書いてみたが、それは僕の中にある区分けでしかない。生田氏の感覚ではどちらがより日用のものというような、物との距離感がさほどない気がする。僕よりほぼ十歳下の八一年生まれだから、同じ室内でも目にするポイントに違いが出るのではないか。
 たとえば「ミニコンポ」という単語(本作にも登場する)は、ある世代から上は絶対に使わない(作家が、というだけではなくて、上の世代の人全般の話)。  p.87(生田紗代「雲をつくる」の加湿器)

 清潔で、なおかつぴしっとしたい。
「ぴしっ」に向けて行う作業や費やす時間は、単に生きるだけなら無駄だ。だけれども我々はアイロンをかける(僕はクリーニング屋まかせだが)。また大げさな言い方になるが、「世界」を「よく」するため、その世界の末端に置かれた布に、我々はアイロンをかけるのだ。
 こうやって書いていくとどうだろう。だんだんアイロンではなく「小説家が小説を書く動機」を説明しているのに似てくるのではないか。
 我々(書き手)は、紐を引っ張るだけで自動的に作用する照明のようにではなく、アイロンにような能動性とテクニックとで、小説に取り組んでいるはずだ。だからアイロンがけと小説は根源的な部分で響きあうのだ。  p.111(小川洋子博士の愛した数式」のアイロン)

 前に別のエッセイで書いたことの繰り返しになるが、商品名や固有名詞に限らず、あらゆる名詞(地名や人名なども含めて)には打率がある(打率に傍点)。「東京」のように大きい言葉でも、すべての人間と、その名詞を同じようには共有できない。 
 だから作家は、すぐ「意味」を失ってしまう、あるいは風化してしまう可能性がある言葉を用いるのはなるべく避ける・  p.119(干刈あがた「ゆっくり東京女子マラソン」のグローランプ)

 点滅も、一瞬遅れることも、世界にもたらされた立派な作用だ。親子と部屋(世界)とが、互いの存在を補完して立ち上がる。干刈あがたという作家があの時代の女性の、母親のありようをきちんと書いたことを評価する評論家は多いが、評価すべきはそこだけではない。  p.124(干刈あがた「ゆっくり東京女子マラソン」のグローランプ)

 そして、干刈あがたに生きていてほしかったと強く思う。宇多田ヒカルや、ブログや、田舎にばかり普及した真っ白いBSアンテナやなんかを、みて感じて、書いてほしかったよ。  p.125(干刈あがた「ゆっくり東京女子マラソン」のグローランプ)

 言葉で世界を構築する人、つまり作家は抵抗する。商品名を伏せる、あるいは「書かない」ことで、空間を単純化させて(小説)世界の見晴らしをよくする。本質だけを浮かび上がらせるために必要な手続きといえる。固有名詞の爆発的な増大とともに、何を書くのではなく何を、いかに書かないかという選択は、さらに重要になった。  p.193(あとがき)