2009-03-25から1日間の記事一覧

谷崎由依「冬待ち」文藝春秋(『舞い落ちる村』収録)

背の高い木製の書架のあいだにときどき誰かが経っている。森のよう。道標のある道をたどっていくようだ。糸乃は鞄から幾つかのメモ書きを取り出して、本の住所をたずねて歩く。幾つにも分岐する書物の家を横目で見ながら、誰々他著とあるのを一瞬、他者、と…

谷崎由依「冬待ち」文藝春秋(『舞い落ちる村』収録)

頭上では空が旋回しながら無数の雨滴を散らしている。車輪が軋り、飛沫を上げる遠い音。すると耳許でかたかたとやかんが沸騰する。ぼんやりした頭のまま立っていって珈琲を湯で溶く。牛乳を流し込む。何も起こらないであろう今日。 p.79

谷崎由依「舞い落ちる村」文藝春秋(『舞い落ちる村』収録) 

朔は言葉で、わたしは言葉でないものだった。そんなふうに決まってしまうと、わたしはますます喋ることができなくなり、これはいささか不本意ではあった。けれども一方が一方であれば、他方は他方であるものなので、それは仕方のないことだった。わたしはそ…

谷崎由依「舞い落ちる村」文藝春秋(『舞い落ちる村』収録)

ことし、数えで二十六になる。 p.7

桐野夏生『女神記(ジョシンキ)』角川書店

ナミマ、一番始末に悪い感情は何か知ってるかい?そうだ、憎しみなのだ。憎しみを持ったが最後、憎しみの熾火が消えるのを待つしか、安寧は訪れない。が、それはいったいいつのことやら。私はイザナキによって、こんな地下の冷たい墓穴に押し込められてしま…

桐野夏生『女神記(ジョシンキ)』角川書店

私の名はナミマ。遠い南の島で生まれ、たった十六歳の夜に死んだ巫女です。その私が、なぜ地下の死者の国に住まい、このような言葉を発する存在になったのかは、女神様の思し召しに他なりません。面妖なことではありますが、今の私には、生きている頃よりも…