谷崎由依「舞い落ちる村」文藝春秋(『舞い落ちる村』収録) 

朔は言葉で、わたしは言葉でないものだった。そんなふうに決まってしまうと、わたしはますます喋ることができなくなり、これはいささか不本意ではあった。けれども一方が一方であれば、他方は他方であるものなので、それは仕方のないことだった。わたしはそれよりも、対であるということに浮かれていた。私は名前のあるものであり、わたしは誰かの半分である。わたしは大切なものである。わたしはわたしであるがゆえ。  p.22

 夏はそのようにして流れていった。朔がキャンプや夏合宿に行っているあいだ、そのようにしてわたしは部屋で死んでいた。朝になると、どこからともなく海が満ち、わたしの亡骸を運んでいった。  p.40 

話すことは、出会った頃から概ね同じようなことだった。その同じ朔の言葉が、わたしの耳から鼓膜を通って前頭葉に伝わるまでには、すっかり意味を漂白された、白骨死体のようになっていた。夏のあいだにわたしが耽っていたことの結果がこれだった。いや、それだけではない。わたしたちは一緒にいすぎた。朔の言葉をわたしは聞きすぎた。繰り返しは意味を無効にする。わたしの頭は始終真っ白になった。真っ白ななかをびゅうびゅうと風が吹いた。冬にはまだ間があったものの、寒さゆえに閉じこもり始めたわたしたちの上を、真っ白な天井近く、びゅうびゅう吹雪が吹きぬけた。  p.42〜43

 年毎に、幾度も幾度も染め返されて、そのたびに、村は何度でも再生する。  p.44

 稠密な模様を見ていると、言葉のない、彼女たちの、思念の底へどこまででも落ちてゆく思いがする。  p.45

 に、という数と、いち、という数は、ほんとうのところどれだけ違うのだろうか。二は一の変奏でしかないのか。二は容易に一になろうとする。二は、安定しているようでいてとても不安だ。わたしは朔になりたいのだろうか。違う、わからない。
 けれども、仮にそうだとしたところで、何も消えず誰も死なずに、二が一になることなどあるはずがない。それはたぶん、とても不吉なことに思えた。この世では、数は増えていくものだ。すべては拡散していくのだから。わたしたちがひとつのものになってそれで誰も死なないなんて、ありえないことに思えた。
 ――いち子、何か話して。  p.51

だってわたしには無理だった。ひとりとひとりの、どくりつしたこじんのりせいてきなかんけいをとりむすぶことは、ようちなわたしにはむりだった。  p.53

 いつの間にかひどく汗をかいていた。冷たい汗で、身体がどんどん冷えていった。
 耳鳴りもした。ささやかな耳鳴りの、白くかそけきその音は、繊細なレース編みのようだった。この状況でなぜレース編みのことなど考えられるのか不思議だった。耳を澄ますと、レース編みはひとつの言葉になった。  p.57

 すべての出来事は、思い返せば、幾つもの鏡にばらばらに映る、ちぐはぐな像である。鏡のひとつに手を触れようとすると、それは歪み、ゼラチンのように溶け落ちる。その鏡は、腐っているのだ。
 ただひとつだけ、ほんとうのことがある。「不在」だけが、ほんとうなのだ。  p.72

 ああん。全文引用したいぐらい、文章が好き好き。詩的で繊細かつ端正な文章によって綴られる神話的幻想譚。現実の大学の対になる閉鎖的集団の村の存在が極めて耽美的なのに、全体の雰囲気は耽美に淫することなく理知的なところも好き好き。
 図書館で借りて読んだけど、やっぱり買っちゃおうかなー。