稲葉真弓「光の沼」新潮社(『海松』収録)

 この土地の古い言葉で「食べなさい、飲みなさい、走りなさい、飛びなさい」という意味の<聲>が、地底とも天空ともつかぬ場所から聞こえてくる。楽しいことのすべてを、こちらへ託すような<聲>。同時にそれは、あっという間に五十数年を過ごしてしまった私を、もうちょっと先へと促す<聲>のようでもあった。ちゃんと食べ、飲み、走り、飛び回っていさえすれば、どこかにたどり着くよと励ます<聲>。  p.90

 無月の夜なのに、明るい夢の中にいるようだった、自分の<聲>が、初めて、心底、なにものかに向かって無心に音を発している、そんな気もした。
 ふいに私の中を、もうひとつの光のように、言葉がよぎっていった。
「私ハ市ヌガ、我々ハ生キル。」
 死んだ男友達の一人が書き留めていった言葉。ある時期、やたら気にかかっていた「我々」の意味が、隙間なく眼前の闇にひしめいている気がした。  p.98