稲葉真弓「海松」新潮社(『海松』収録)

ずっとずっと仕事をしてきたのだ。食べるために不健康な毎日を送ってきた。生きるために不健康を選ぶのは矛盾じゃないか。だからここではなにもしたくない。無意味な暮らしがいい、空っぽの日々がいいといつも思う。  p.19

そんな時間が私にもあった。私の中に差し入れられた核は、みなクチナシの花のぱりぱりと乾いた夢の中で滅んでいった。まだ近くにある、まだ大丈夫、思う端から死んでしまった私の核たち。私の中を通りすぎた無数の月の満ち欠け。快感か苦痛かわからないものが、一瞬体の奥を通りすぎる。きっと牡蠣にはわからないだろうな、私たち人間のことは。それでいいのだ。  p.44

 ひたひたと潮が満ちる音がした。その潮の向こうから、明るい光がさしてくる。目を細めてみるとあれは灯台。真っ白な灯台が、宇宙船そっくりに浮かび上がっていた。こんな湾の奥にも岬の灯台の光は届くのだろうか。過去から射しているのか、黄色味を帯びた照明の輪の中に、この家に集った人々の顔が浮かび上がる。
 灯台へ灯台へ。そう、私もいつかは灯台へ行かねば、宙に浮いたままの時間の折り合いがつかぬ。 
 あれは私のタイムマシーン。もうそこには行けない人の替わりに、乗ってみるのだ。そこで誰も見なかった光を見てくるのだ。  p.49