小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』文藝春秋

「きっち他のところに特別手を掛けて下さって、それで最後、唇を切り離すのが間に合わなくなったんじゃないだろうか」
「他のところ、って?」
「それはおばあちゃんにも分からないよ。何せ神様がなさることだからね。目か、耳か、喉か、とにかくどこかに、普通の人にはない特別な仕掛けを施して下さったのさ。きっとそうだ。間違いない」  
「でも、僕のどこにも仕掛けなんかないよ」
「それを見つけ出して生かすのは、神様じゃない。お前だよ。神様のお考えを表せるのは、人間なんだ。いくら神様でも人間がいなかったらお手上げだ。そうだろう?でも神様が慌てるくらいだから、きっと素晴らしい仕掛けに違いない。おじいちゃんに似て手先が器用なのか、それとも駆けっこ、歌、計算、絵が一番か。ああ、お前が大きくなるのが、おばあちゃんは楽しみでならないよ」  p.25〜26

「慌てるな、坊や」
 男は言った。
 それは以降、男が少年に向かって幾度となく繰り返すことになる台詞だった。慌てるな、坊や。その言葉と声のトーンは、生涯を通じて少年の警句となり灯台となり支柱となる運命にあった。  p.31

「チェス?」 
 少年は問い返した。それが何を意味しているのか分らないまま、言葉の響きがいつまでも消えずに耳の奥で渦巻いているのを感じていた。
「そう、チェスだ。木製の王様を倒すゲーム。八×八の升目の海、ボウフラが水を飲み象が水浴びする海に、潜ってゆく冒険だ」  p.39

いつしか彼はポーンを撫でているのではなく、ポーンに抱きとめられているのかもしれないという錯覚に陥った。ポーンの感触を味わうための小さな塊、ちょうど唇くらいの小ささになって、ポーンの肉球に包まれていた。
 唇になった彼は、生まれた時のまま、しっかりと閉じられていた。余計なものは何も入ってこず、何も出てゆかず、ただ汚れのないしんとした静寂だけを湛えた唇だった。  p.55

「ゲームの記録はな、棋譜って言うんだ。これが書き記されていれば、どんなゲームだったか再現できる。結果だけじゃなく、駒たちの動きの優雅さ、俊敏さ、華麗さ、狡猾さ、大らかさ、荘厳さ、何でもありのままに味わうことができる。たとえ本人が死んだあとでもな。棋譜は人間より長生きなんだ。チェス指しは、駒に託して自分の生きた証を残せるってわけだ」  p.59

「お前の言うとおりだ。家具に残った窪みや染みやささくれは、それを使った人の形見さ。だからおじいちゃんは家具を修理している時、いつもそういう人たちと会話してる」
 ああ、そうか。おじいちゃんが無口なのは、死んだ人と話をしているからなんだ、と少年は気づいた。  p.73

「生まれつきミイラにはチェスの才能があるんだよ。どんな高価なチェスセットの美しさも、素晴らしい棋譜が持つ美しさにはかなわないんだ」
「そう。駒は動いている時が一番綺麗」  p.174

そして何よりもその小ささが、彼にはよく分った。小さいという存在が世界に対してどんな意味を発しているか、一冊の物語を朗読するように克明に解読することができた。  p.176

「どうしてだろう。自分から望んだわけでもないのに、ふと気がついたら皆、そうなっていたんだ。でも誰もじたばたしなかった。不平を言わなかった。そうか、自分に与えられた場所はここか、と無言で納得して、そこに身体を収めたんだ」
「あなたも同じ?」
 ミイラは足元に積もった枯葉の山を爪先で崩した。湿った土の匂いが立ち上がってきた。
「たぶんね」  p.177

 大きくなること、それは悲劇である。  p.202

自分はデパートの屋上にある海で泳いでいる。それはインディラの足跡にできた海だ。そして人形の中に入るよりもっと小さく、生まれた時のままの唇だけの姿になって、とても安堵している。ミイラはポーンが吐き出した空気の泡の中で、その控えめな笑顔を透明な膜に映し出している。インディラの鼻が巻き起こす海流に乗り、皆一緒に漂ってゆく。チェスの海は果てしなく、海底ははるかに遠いが、不安など一かけらもなく、唇の奥で沈黙を温めながらどこまでもどこまでも深く沈んでゆく。  p.207〜208

 祖母は孫の唇がなぜ閉じられたままだったのか、それと引き換えに孫に授けられた才能が何だったのか、はっきりと悟った。
「あの子には言葉なんかいらないんだよ。だってそうだろう?駒で語れるんだ。こんなふうに、素晴らしく……」 
p.241

自分より、チェスの宇宙の方がずっと広大なのです。自分などというちっぽけなものにこだわっていては、本当のチェスは指せません。自分自身から解放されて、勝ちたいという気持さえも超越して、チェスの宇宙を自由に旅する……。そうできたら、どんなに素晴らしいでしょう」  p.254

「僕は小さいから人形に入っているわけじゃありません。チェス盤の下でしかチェスが指せないでいたら、いつの間にか小さくなっただけです。ずっと昔からチェス盤の下が僕の居場所なんです」  p.342

でも僕にその素晴らしさを映し出して見せてくれるのは、盤上じゃなく、盤下なんです。僕はもう、盤の下からは出られません。いくら願ってもビショップが、斜め以外、真っ直ぐには動けないのと、あるいは、屋上に取り残された象が地面に降りてこられないのと、同じです」
「象?」
「はい、象です」  p.342〜343