吉田篤弘『小さな男*静かな声』マガジンハウス

 すでに小島さんのもとから離れていた時間の係員が、どこからか音もなくするすると忍び寄り、小さな男の背中を「ついに」と軽く叩いて無表情のまま去っていった。  p.94(「小さな男 #3」より)

「大きな愉しみは時として気紛れだが、ちょっとした愉しみは決して裏切らない」 p.117(「小さな男 #4」より)

基本も大事だが、逸脱も大事。基本はもちろんのこと、逸脱を「おいしい」と言わせるのが料理人の腕の見せどころである。
「知りませんよ」などと言いながらも、旦那はそれをよく分っている。  p.184(「静かな声 #5」より)

「ええ、それ以上おっしゃらなくても分かります。さみしいですものね。今日、いまここでこうして二人で話したこととか、話しながら考えたこととか、そんなことがもしかして自分にとっていちばん残しておきたいものなのに」  p.256(「静かな声 #7」より)

 結局、いちばん残しておきたいものはいつでもこうしてこぼれ落ちてゆく。人の記憶なんてそんなものだ。赤い手帳を買って、それがよく分った。代わりに、どうでもいいことばかりが克明に記憶されてゆく。
 でも、それを「楽しいですね」とミヤトウさんは言っていた。 
 おかしな話だ。  p.256(「静かな声 #7」より)

 ただ、ひとつだけ言えることは世界は常に動いているということ。その限りにおいては「当たり前」のものが「当たり前」でなくなる可能性がある。  p.332(「小さな男 #10」より)

 マイナーと称されるのはあくまでメジャーに対して物理的な数量が少ないからで、思い入れの度合いを秤にかけることが出来たなら、おそらくそこには差など生じない。だから、あっさりと逆転が起きる。というか、起きたのだ。マイナーであることを自認してきた小さな男が、チーズ・バーガーを食べながら『明日に向かって撃て!』を鑑賞し、感激のあまり涙を流したのである。  p.333(「小さな男 #10」より)

 マイクに向かったら、わたしはわたしを後回しにして、マイクの向こうにある世界だけを見ながら話せばいい。わたしはこの世界のほんの脇役で、いや、脇役ですらなくて、物語に寄り添うナレーターのように「彼ら」の胸の内を読んだり、「彼ら」の代わりに迷ったり決断したり笑ったり怒ったりして、ときには元気が出るような、ときには懐かしい、そして、ときには悲しげな音楽を流したりすればいい。そういう役割なのだ、私は。  p.359(「静かな声 #10」より)