吉田修一『さよなら渓谷』新潮社
そんな目に遭ったのは彼女のほうなのに、ずっと考えていると、まるで自分がそんな目に遭ったような気がしてきて……、なんか、誰かに負けたような気がしてきて。でも、この誰かって誰なんすかね?」 p.92
ただ、一人で喋り続けているうちに、自分がそれほど尾崎を憎んでいないような気がしてくる。憎んでいないどころか、まるで車道の向こう側を歩く自分に語りかけているような気さえする。 p.92〜93
ああ、この人もずっとあの夜から逃げられずにいたんだなぁって。あの夜から逃れて、自分だけが幸せになっていくことを、心のどこかで許せずにいたんだなぁって。
そして今、自分を絶対に許してくれない私の前で、彼はやっと自然に息をしているんだなぁって。 p.175
詩織も逃げられなくなった女なのだとふと思う。俺のような男から、自分が選んでしまった生活から、一歩も出ていけなくなった女なのだ、と。 p.180
姿を消せば、許したことになる。一緒にいれば、幸せになってしまう。「さよなら」と書き置きしたかなこの言葉が、渡辺の胸に重く伸しかかる。 p.198