山本兼一『利休にたずねよ』PHP研究所
――どうしてあそこまで、茶の湯の道に執着するのか。 p.40(秀吉「おごりをきわめ」)
利休の傲岸不遜のかげには、美の崇高さへのおびえがあったのか。
――利休殿は、美しいものを怖れていた。 p.56(細川忠興「知るも知らぬも」)
慇懃かと思えば傲慢。繊細かと思えば、婆娑羅よりなお無頼。まことに変幻自在だが、どの顔の目線をたどっても、かならず美しいものにつきあたる。それが面妖でならんのだ」 p.72(古渓宗陳「大徳寺破却」)
「利休という男、一見、おだやかで柔和な顔をしているが、じつは、あやつほど頑なな男もめずらしい。一服の茶を満足に喫するためなら、死をも厭わぬしぶとさがある。その性根の太さは認めてやろう:
秀吉は人の心底を見透かす鋭い直感力をもっている。利休にはたしかにそんな一徹さがある。
「たかが茶ではないか。なぜだ? なぜ、そこまで一服の茶にこだわる」 p.77(古田織部「ひょうげもの也」)
「侘び茶と称しながら、利休居士の茶はまるで枯れておりません。むしろ、うちになにか熱いものでも秘めておるような」 p.195(秀吉「野菊」)
利休は、いつも飄然と茶を点てている。
すくなくとも、客の目にはそう見える。
ただ、その内側では、地獄の釜が煮えたぎるほど貪婪な、美へのむさぼり、美への執着がある。それは間違いのないところだ。
それでいて、その貪婪さを毛の先ほども見せるのを嫌い、気配さえ感じさせない。
他人の茶の湯で、そんな気配をわずかにでも感じた場合、利休は、ただちに席を立ち、侘び茶人にあらずと切り捨てる。
――いったいあの執着の根源はなんなのだ。
そう考えると、宋陳は利休という男に、そら恐ろしいものを感じた。利休の内部で燃えている毒の焔が、信長や秀吉より、はるかに怖ろしいものに思えたのだった。 p.227〜228(古渓宗陳「三毒の焔」)
鄙びた草庵のなかにある艶やかさ。
冷ややかな雪のなかの春の芽吹き。
――命だ。
侘びた枯のなかにある燃え立つ命の美しさを愛してきたのだ。 p.275(利休「黄金の茶室」)
「美しいものを手に入れるためなら、人くらい殺しそうですもの」 p.314(千宗易「待つ」)
「寂び寂びとしてそ相なるところにこそ、物数寄があると存じまする」
枯れ寂びて、なお欠けたところに美しさはある。完全な美などなんの感興もない。 p.413(千与四郎「恋」)
利休が誰にも見せぬよう大事に隠し持っている緑釉の香合。なぜそのように執着するのか、碧玉のごとく美しい小壷の秘密とは。侘び茶ながら内に秘めた熱がある利休の茶の湯の謎を、香合の出自も絡めて利休を利休たらしめることとなった過去のある一点に向けて、歴史的に有名な事件を背景に短いエピソードを重ねて遡って検証していく物語(必ず茶の湯のシーンが織り込まれているのがポイント)。何があったのか、何ゆえに腹を切ることになったのか。
人によって印象がさまざまな利休の人となりを知ると同時に、背景となる信長から秀吉への時代の大きなうねりをひしひしと体感できるところがいい。時代ものが苦手な人間にもするする一気に読めて、読後に残るのは心地よい感動。これもまた一つの利休解釈、他の利休を扱った作品も読んでみたいー。