尾崎真理子『現代日本の小説』ちくまプリマー新書

現代日本の小説 (ちくまプリマー新書)

現代日本の小説 (ちくまプリマー新書)

 大江のノーベル賞受賞は九二年に中上健次、九三年に安部公房という純文学の支柱を亡くしたことと相まって、戦後の文学を築いてきた旧文学世代の後退を印象づけた一面もあった。次のノーベル文学賞受賞に向けて、だれを日本文学のナンバーワンと想定するか。新たな模索が始まったことを意味していた。  p.46

 川端康成ノーベル賞受賞記念講演「美しい日本の私」から二十七年。九四年末に行われた大江の記念講演のタイトルは「あいまいな日本の私」。次の受賞作家は、「日本の私」を語らない日本人になるのだろうか。  p.47

 では、村上の場合は。ここで「敷居を下げて書きたい」という発言の深意を想像すると、それは異言語間の敷居を越えるために、何語に翻訳されても決して損なわれることない言葉をめざしていく、そのために日本語的なものに寄り掛からないように注意しながら、シンプルで、普遍的な表現を尽くしていく――という決意表明がされているように受け取れる。
 さらに言えば仮名遣いから敬語まで、英語と比べると様々な拘束と複雑さを持つ日本語を、美しい陰影を留めながら、いったいどこまで完全な形で英語に移し替え得るか。その可能性の極致を探すために、村上はまるでマラソンを走るように日々、英語小説の翻訳を行い、自身の言語感覚における感覚を研ぎ澄まし、鍛える努力を続けてきたのではないか。それこそが村上春樹のグローバリゼーションの実直な戦略であり、世界中どこのどんな国で、多少は質に問題がある翻訳を経ることになったとしても、「魂の奥まで」「するっと自然に向こうまで突き抜けていける」物語の言葉を可能にしつつある秘策ではないのか。 p.81

 私たち日本のメディアも、他国の村上評への感度を高めていかなくてはならない。既存の日本的な制度の枠内で閉じていない、新しい評価の視点を見つけるために。  p.86

 現代小説は、もう現在をそのまま描けなくなってしまった。現代人の苦悩を描く小説だからこそ、過去にさかのぼらなくてはならなくなった。  p.164