鴻巣友季子『翻訳のココロ』ポプラ社
身も蓋もないことをいえば、翻訳とはそれじたい、性格のわるい作業なのである。 p.24
原文の含意を伝えるというのが、目標の「バー」だとすると、これを越せなければ、そこで翻訳は敗退である。だからといって、文中にあれもこれもと訳者の補足や工夫を盛り込んで、「バー」よりむやみに高く跳びすぎれば、エネルギーの無駄遣いだし、だいいち文章として美しくない。やはり、ほどよい余裕でクリアするのが美しい。 p.32
ホンヤクも「いかにも巧い訳語」と読者に思われるようでは、名訳とは言えないんだなあ、とつくづくと思う。「いかにも労作」というのもいただけない。こちらの負担を読者に伝えてしまってどうする、と常に自戒はしている。たぶん、本当にいい翻訳とは、読者が訳文の出来不出来などに思い到りもせず、「ああ、なんて面白い本なんだ」と息つく暇もなく読んでしまう翻訳なのだ。翻訳のことを忘れるような。翻訳が消えるような。少なくとも、読み手の意識から消えるような。
持ち上げる手がそこにないかのように見えるリフト、のようなホンヤク。
行き着けることがあるか知れない境地である。 p.51
小説にも似たようなことが言えるなあ、と思いながら聞いていた。まさに『嵐が丘』は発表した一八四七年当初「まずくて」世の中に受け入れなかった。まだ「生」すぎたのかもしれない。それが、人と文学が歴史を重ねるうちに味がこなれ、いろいろな解釈が生まれ、作品と読者がおたがいにじゅうぶん熟して美味しく飲めるようになっていったのだと思う。『嵐が丘』は読み手という樽のなかで最上の熟成を遂げたのだ。そこまでに、数十年という歳月を要した。それだけ大物だったということか。 p.114〜115
わたしと『嵐が丘』も長い歳月を経てだんだん歩み寄り、ようやくおいしく味わえる地点に辿り着いたのだ。
これからも『嵐が丘』は読み手の変化によって、さまざまに味を変えていくのだろう。この最高級の酒は、あと百年でも熟成を続けそうである。
すぐれた小説は時とともに、ますます旨みを増すものだ。 p.115
時間的な順序で考えれば、過去の古い作品に影響を受けて現在の新しい作品が生まれるわけだが、「古典は何度でも再生する」というのはこういうところだ。『嵐が丘』は後世の作品をインスパイアすると同時に、新作によって自身が新しくなっていく。新しい作品を豊かにすることで『嵐が丘』自身が豊かさを増してきたのである。 p.132
これと同じことが『嵐が丘』にも、ありとあらゆる形で起きてきたと思うのだ。『風と共に去りぬ』を読んだ人が、ヴァージニア・ウルフを読んだ人が、あるいは漫画『ガラスの仮面』を読んだ人が、新たに『嵐が丘』と接するとき、そこには十九世紀当時の読者がもちえなかった豊饒が生まれうる。過去と未来とふれあって再生する。
古典が時とともにますます新しく豊かになっていくというのは、こういう意味だ。
名作はただ古くなるのではない。熟成をかさねていくのである。
いまのわたしには「古典の新しさ」ということばがいっそう輝いて見える。 p.133
エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を翻訳したばかりのわたしは肌で感じているのだけれど、古典にはその時代その時代で、とくに「読まれたがっている部分」がある。優れた古典は、つねに新しい物語を見せてくれるものだ。『嵐が丘』でいえば、いまの読者が読みたいのは、「哀れなみなしごによる復讐譚」という古めかしい話ではないだろう。 p.134〜135