翔田寛『誘拐児』

言ってみれば、あの終戦直後の滅茶苦茶な世の中では、すべての日本人―いや、この国で普通に生活していたあらゆる人間が、生きてゆくことだけで精一杯だったんだ」
「どんな人間でも、いつ何時、凶悪事件を起こしてもおかしくなかった、そういうことですね」
「やりきれん話だが、まさにその通りさ。追い詰められ、わが身が危うくなったとき、人間の本性が剥き出しになるんだ。他人を蹴落としたり、騙したり、人のものを盗んだりして、がむしゃらに生き抜いた奴らが、信じられないほど大勢いたことだろう」
「少なくとも、和田耕造はその一人ですね」
「そうだ。しかしな、それとは正反対に、まっとうな人の心を失わず、慎ましく懸命に生きた人間も少しはいたはずさ。一方が鬼なら、他方は仏だよ」
「鬼は大勢いるのに、仏はほんのちょっぴりですか。嫌な時代ですね」  p.254〜255

 昭和21年7月10日に起きた児童誘拐事件と昭和36年6月28日に起きた下條弥生殺人事件が結びつくのか。第54回江戸川乱歩賞受賞作。