近藤史恵「清姫」(『寒椿ゆれる』光文社より)
千蔭は、しばらくぽかんとしていた。何を言われたのか、すぐにはわからないようだ。
千蔭の額から汗が噴き出した。あわてて、手ぬぐいで拭っている。 p.161
「ろくには色だの恋だのというものはわかりませぬ」
おろくは、巴之丞にも言ったことばを、もう一度繰り返した。
「それでも、そのような思いを堰き止めれば悲しいことが起こりましょう。清姫が安珍を殺したように……。ですから、わからないからといって、見て見ぬふりをしたくないのです」
千蔭は、息を吐くように静かに言った。
「この世には、堰き止められず自由に迸る流れよりも、堰き止められて耐えていく流れの方が何倍も多かろう。だれもが胸の奥に、自由にならぬ流れを抱いているのではないか?」 p.165