川上弘美「長い夜の紅茶」(『どこから行っても遠い町』新潮社より)

 平凡と、平均的とは、ちがう。というのが、わたしの持論だ。
 何千人ぶんもの顔をかさねてコンピューター処理し、目鼻の位置や大きさを平均化した顔を造形すると、それはいわゆる「美人」「美男」になる、という新聞記事を、以前読んだことがある。
 平均とは、そのように、ある種の美に通じるものだ。
 平凡、は、平均よりも、なんというのだろう、輪郭が決まらない、感じがある。
 たとえば、りすが、平均で、ねずみが、平凡。りんごが平均で、バナナが平凡。ディズニーランドが平均で、豊島園は平凡(これはちょっと違うかもしれないけれど)。そして、我が家では、夫司郎が平均で、わたしが平凡。
 平均と平凡の間に、越えられない深い川があるわけではない。同じ範疇のものなのでは、ある。平凡のほうが劣っているわけではない。平均のほうが勝っているわけでもない。ただそこには、何か目に見えない大きな違いが、たしかにあるのだ。  p.111

 わたしのこんな、ちゃちな願いのようなものを、きっと天の高いところにいる誰かは、笑って聞いているにちがいない。平凡。もう一度、思う。  p.133

 自分のことを平凡だと思っている主婦時江のお話。義母弥生さんとの生活で、その気持ちが柔らかくなる。そんな自分を受け入れられるようになる。義母にも茅子さんにも、語られないだけで背負ってきたそれまでの人生の重なりがあって、他人にとっては十分にドラマチック。時江と弥生さんとの関係、距離感がほどよくて憧れる。