書きだし
母親はため息をついた。そして粉末のプロテインを牛乳で溶いたダイエット・ドリンクをテーブルに置いて、ぴったりと胸に近づける。 p.87
息がつまる。母、母、母親に囲まれていて、私は息をつまらせている。別に私には特別なところはない。自分はいい意味でも悪い意味でも、普通の主婦だ。どういうところが普通かと聞かれて、答えていたらきりがないけれども。だって、普通であることを、当たり…
煙たい味のする雨が下唇に落ちて、わたしは舌うちをした。 p.3 なぜわたしは雨が降る廃車置場で、イノギさんが10年ほど前になくした自転車の鍵を探しているのか。イノギさんとの出会いから探すことになった経緯までを描く小説。
子どものころ、わたしには特別な力があった。走っている車を一瞬のうちにとめることができたのだ。 p.105
ショッキングピンクの塀の前までくると急に切なさがこみあげてきた。立ち止まって塀をなでながらあなたのことを考える。あなたはきょうこの塀にさわっただろうか。きのうやおとといはどうだろう。あなたのぬくもりが残っていないか、手をすべらせて確かめる…
女の右腕が飛んできてわたしの首を激しく打った。鈍い音が店の中に響き渡り、居合わせた人たちが一斉にこちらを見た。女は薄笑いを浮かべている。思い知ったか、もう一発殴ってやろうかという顔だ。わたしはあわてて逃げ出した。途端に、背中に衝撃を感じた。…
この島の人間は皆、夢を見ない。 島の中ほどにある小さな山の上に朽ちかけた祠があり、そこに棲む獏が夢を喰ってしまうのだ。島に住む人々の心は虚ろで、その夢はあまりにも貧しいため獏はいつも飢えていて、島の灯りに惹かれ訪れた客人の束の間の惰眠ですら…
「かあさん、またあのカモ、巣を温めてる」ツェルは窓から思いきり身を乗り出した。 p.10
白い厚紙のマウントがすっかり古ぼけたスライドがある。泣き顔の女の子がポジフィルムに写っている。 p.5
ベランダで飼いはじめると鶏は、ひとまわり小さくすがたを変えた。 p.3
万物には魂が宿る。ミノベの信仰にはそうある。万物に魂は宿る。母体の下の口から、あるいは殻を破り、あるいは分裂し、あるいは型を抜かれ、あるいは袋に詰められ、あるいはネジをとめられ、あるいはネジと一緒に梱包され、万物の命は生まれる。そこに魂は…
「私はー、本がー、大好きだー。私はー、本がー、大好きだー」と心の中で、念仏のように繰り返しながら、カナは都内の大型書店でアルバイトをしている。 p.7
団地が、ぼくの家だ。 p.3(プロローグ)
ひと切れの死んだ竹の管から湧水のように溢れ出る幽玄の調べは、住民ひとりひとりの俗念をすっぱりと断ち、邪念を払い。城址公園の大山桜の花と、誰も正確な数を知らない桃の花を一層赤く染め、対岸の一本残らず生きている真竹を青々とさせ、その竹林に横た…
ただならぬ水の気配がする p.3
私が“化け物”だとして、それはある日突然そうなったのか。少しずつ変わっていったというならその変化はいつ、どのように始まったのか……考えれば考えるほど、脳は頭蓋骨から少しずつ体の内へと溶け出していき、その中を漂いながら、ぼやけた視界で必死に宙に…
「やりゃーいーんだろー、やりゃー」 後ろから柔らかく抱きしめていたヒデの腕を、がばりと振りほどいて額子は言う。 p.3
私が昇一と最後に会ったのはふたりが小学校に上がる直前くらいのときだっただろうか。 p.5
僕らは太陽の涙。 太陽が泣きこぼす、熱いしずくが固まってできた。 僕らの島、そして僕らの体も。 p.7
<歌舞伎町で朝までやってる味噌ラーメンの超うまい店>は、とうとう見つからなかった。 p.7
海へ至る道は白く輝いている。 p.3
戦争孤児が見る夢を、佐々木海人も見る。小さな家を建て、消息不明の母を捜し出して、妹と弟を呼びよせて四人で慎ましく暮らすという夢を。八歳のころから見つづけてきたささやかな夢だ。 p.8
聞こえるか、香折。父さんは廊下に座って話をする。この扉は開けない。 p.3
地図帖||148頁ほか「あるひとりの子どもが、音楽に祝福されて産まれた。 p.3
背景の風景が、すとんと抜け落ちたような気がした。突然、断崖絶壁の先端に後ろ向きで立たされたような感覚だった。 p.3
二階のベランダの手すりに腰掛けている二人が、こっちに向かって指差したように見えたので、あの場所から車の中にいるわたしのことは見えるんだろうかと、と思った。 p.3
一日目 さて、何から書きましょうね。 この役に就いた抱負でも書けば宜しいですか。それとも生まれて初めて願いが叶えられたことに、感謝でもしましょうかね。 p.5
みんな出て行ってしまった。閑散としたスタジオの真ん中に置かれたパイプ椅子に座って、アザミは、ひっぱたかれた頬が今ごろひりひりと痛みはじめるのを感じていた。 p.3
新学期になって日の浅い、四月下旬のことだった。 p.5
部屋はわずかに三畳あまりの広さしかない。 p.10