2009

中島京子『エ/ン/ジ/ン』角川書店

「あっちゃんて、誰なんですか?」 「あっちゃんは、エンジンよ」 p.60〜61 おそらくとくに装飾的なフレーズではなかったのだろう。ある種の時間を言い表そうとすると、そんな言葉になるのかもしれない。人生の、まだ若い時期には、誰にとっても、ご褒美の…

中島京子『エ/ン/ジ/ン』角川書店

お父さんは、それはものすごいエンジンカだったのよ。 それだけを聞かされて少女は育ったという。エンジンカの説明を、母親はあまり上手にしてくれなかった。 p.5

谷崎由依「冬待ち」文藝春秋(『舞い落ちる村』収録)

背の高い木製の書架のあいだにときどき誰かが経っている。森のよう。道標のある道をたどっていくようだ。糸乃は鞄から幾つかのメモ書きを取り出して、本の住所をたずねて歩く。幾つにも分岐する書物の家を横目で見ながら、誰々他著とあるのを一瞬、他者、と…

谷崎由依「冬待ち」文藝春秋(『舞い落ちる村』収録)

頭上では空が旋回しながら無数の雨滴を散らしている。車輪が軋り、飛沫を上げる遠い音。すると耳許でかたかたとやかんが沸騰する。ぼんやりした頭のまま立っていって珈琲を湯で溶く。牛乳を流し込む。何も起こらないであろう今日。 p.79

谷崎由依「舞い落ちる村」文藝春秋(『舞い落ちる村』収録) 

朔は言葉で、わたしは言葉でないものだった。そんなふうに決まってしまうと、わたしはますます喋ることができなくなり、これはいささか不本意ではあった。けれども一方が一方であれば、他方は他方であるものなので、それは仕方のないことだった。わたしはそ…

谷崎由依「舞い落ちる村」文藝春秋(『舞い落ちる村』収録)

ことし、数えで二十六になる。 p.7

桐野夏生『女神記(ジョシンキ)』角川書店

ナミマ、一番始末に悪い感情は何か知ってるかい?そうだ、憎しみなのだ。憎しみを持ったが最後、憎しみの熾火が消えるのを待つしか、安寧は訪れない。が、それはいったいいつのことやら。私はイザナキによって、こんな地下の冷たい墓穴に押し込められてしま…

桐野夏生『女神記(ジョシンキ)』角川書店

私の名はナミマ。遠い南の島で生まれ、たった十六歳の夜に死んだ巫女です。その私が、なぜ地下の死者の国に住まい、このような言葉を発する存在になったのかは、女神様の思し召しに他なりません。面妖なことではありますが、今の私には、生きている頃よりも…

井上荒野『雉猫心中』マガジンハウス

猫の影。それは、わたしにとっては、待つ、ということと結びついている。猫は簡単にいなくなるからだ。野良猫はもちろん、飼い猫であっても、ある日、いつものようにふらりと出かけて、そのまま帰ってこなくなる。わたしは窓から目が離せなくなる。そこに、…

井上荒野『雉猫心中』マガジンハウス

ハル、ハルという声が聞こえてきた。 p.5

矢野隆『蛇衆』集英社

「生きるための対価であれば、銭でなくてもいい。俺達は人を殺す術を売っている。誰のためでもない。己のために人を殺す。そしてみずから殺めた命を喰らい、生きている」 p.52

矢野隆『蛇衆』集英社

新たな火柱が上がった。 p.3

奥泉光『神器<上> 軍艦「橿原」殺人事件』新潮社

禍々しき死の影――言葉とはこれである。 p.18 観念では死に親しんでも、それはいまだリアルに俺に迫ってはいなかった。これはつまり、単純に、俺が生きているということだろう。 p.71 やや赤みのかかった蛍光灯の光に満たされた、天井の低い十畳間ほどの矩…

奥泉光『神器<上> 軍艦「橿原」殺人事件』新潮社

○九○○に俺たちは内火艇に乗り込んだ。桟橋に立っていたときから、寒くて仕方がなかったんだが、艇が飛沫をあげて走り出せば、剃刀に変じた風が頬に首に斬りつけ尚更寒い。 p.9

クリス・クラッチャー『ホエール・トーク』青山出版社

小学校で、肌の色の違いは、祖先が大昔にどこからやってきたかの違いにすぎないと知ったとき、こう思った。人種差別主義者ってのはよほどのばかか、劣等感のかたまりで、いつもだれかを見下してないと安心できないやつばっかりなんだ、と。自分にそういいき…

クリス・クラッチャー『ホエール・トーク』青山出版社

しばらく間を置いてから書くといい。じっくり思い出して、物語をみつけるんだ。 p.5

柳広司『虎と月』理論社

けれどぼくは、この旅の前と後で、自分がすっかり変わったことに気づいていた。 ぼくは、父には合えなかったが、父がなぜ虎になったのか(ここまで傍点)その謎を自分で解き明かしたのだ。 それは、ぼくがこれからの人生を生きていくために必要な、自分なり…

柳広司『虎と月』理論社

――父は虎になった。 幼いころから、そう聞かされて育った。 p.4

木村紅美「風化する女」(『風化する女』文藝春秋 収録)

「年食って一人ぼっちでさびしく死んでいくなんて、ごめんだよね」 p.17 私がいま、突然死んでしまっても、会社での反応は、きっと淡々としたものだろう。ふとそんなことを思った。同時に、それは当たり前すぎるくらい、当たり前のことなんだと気づいた。 …

木村紅美「風化する女」(『風化する女』文藝春秋 収録)

れい子さんは、一人ぼっちで死んでいた。 p.7

藤谷治『船に乗れ!1 合奏と協奏』

「未来はある 空を見上げたまま、父はいった。 「それでも、未来はあるんだ」 僕は父を見なかった・ 「そうだろ?」 僕は答えなかった。 p.31 僕は何か、ただ透明な寂しさみたいなものが、胸の中に染み通っていくのを感じた。そのときは言葉にならなかった…

山崎ナオコーラ「お父さん大好き」(『手』文藝春秋収録)

「いたわり」という感覚が全ての人間に備わっているのは不思議だ。 落ち込んでいるときには必ず、周りの人から励まされる。 悩み事など決して相談しないような遠い相手から、急に優しくされるのだ。 さんさんとふりそそぐ日光のように。 p.127 自分のレゾン…

山崎ナオコーラ「わけもなく走りたくなる」(『手』文藝春秋収録)

昔から私は、変わっていない。ときどき、わけもなく走りたくなる。 p.123

山崎ナオコーラ「笑うお姫さま」(『手』文藝春秋収録)

「ひとりの男に『いい女』と思われたら、それで満足した方がいいのかしら」 「そうだろう」 「ふうん」 p.111 女は泣き続けた。「私のライフ・ワークが、『王の前で笑うこと』だけだったなんて、むなしいったら。泣けるわ」。変な人生。 p.113

山崎ナオコーラ「手」(『手』文藝春秋収録)

ストロベリー味は、現実の苺とは似ても似つかないものだが、日本人が共通して持っている「お菓子の苺味」というものの、明るく薄っぺらい風味がして、頭を撫でられている気分になる。 p.21 私にとっては、こういう男は意味があるというか、いて欲しいという…

坂木司『夜の光』新潮社

「昼は他人で、夜は仲間。これってかなりスペシャルな感じがしない?」 p.23「季節外れの光」 じっと眺めていると、自分に向ってぐわっと迫ってくるほどの星空。むっと立ち上る草いきれ。虫の声。仲間の気配。 世界が、くるりと完璧な円を描いた瞬間。今な…

道尾秀介「悪意の顔」(『鬼の跫音』収録)

「それなら、その子をここに入れてしまえばいいじゃない」 p.210

道尾秀介「鈴虫」(『鬼の跫音』収録)

私はね、刑事さん。私はいつも思うんですが、この世は完全犯罪だらけですよ。やったことを他人に気づかれさえしなければ、それは完全犯罪なんです。あなただって、いくつ完全犯罪を犯してきたかわかったもんじゃない。人間なんてね、生きてるだけでみんな犯…

小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』文藝春秋

「きっち他のところに特別手を掛けて下さって、それで最後、唇を切り離すのが間に合わなくなったんじゃないだろうか」 「他のところ、って?」 「それはおばあちゃんにも分からないよ。何せ神様がなさることだからね。目か、耳か、喉か、とにかくどこかに、…

小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』文藝春秋

リトル・アリョーヒンが、リトル・アリョーヒンと呼ばれるようになるずっと以前の話から、まずは始めたいと思う。彼がまだ親の名付けたごく平凡な名前しか持っていなかった頃の話である。 p.5