印象的なシーン

ニール・ゲイマン『アメリカン・ゴッズ』下巻 角川書店

「あなたもわれわれの仲間です」ウェンズデイはいった。「忘れられていて、もう愛されてもいないし、思い出してももらえない。その点ではわれわれと同じだ。どちらの側につくべきかは明らかです」 p.32 小説を読むと、ほかの人間の頭のなかへ、ほかの場所へ…

森谷明子『深山に棲む声』双葉社

それに、どこのものでもない話は、どこの話にもなる。 p.292(「囲炉裏の前で」) 「ねえ、さっきの話は、本当のこと?」 母親はほほ笑んで、首を振った。 「いつも言っているだろう。昔語りを、真に受けるものじゃない、とね。さあ、安心して、もうお眠り…

ダニロ・キシュ「赤いレーニン切手」(『死者の百科事典』収録)東京創元社

過ぎたことは過ぎたこと。過去は私たちのうちに生きていて、消し去ることなどできません。 p.173 味わいが見事にバラバラの愛と死をテーマにした九つの物語が収録。元ネタが分かっていて読んだのがよりいっそう深く味わえるのだろうけど(作者自らによる作…

ダニロ・キシュ「王と愚者の書」(『死者の百科事典』収録)東京創元社

こうして、ルネッサンスの王子の教育のために書かれた一冊の参考書は――ジョリーの哲学的な輪廻を経てニルスの歪んだ鏡で屈折し――現代の独裁者の手引きとなるのだ。ニルスからの数例とその文章の歴史的な反射は、この文献の影響を物語っている。 p.157〜158

津村記久子『八番筋カウンシル』朝日新聞出版

地元の人間関係に依存するのはろくなもんじゃない、とホカリは言う。 p.47 それは大げさだとしても、ホカリの母親が兄と妹の間に何らかの差をつけていることは確かだ。自分たち兄弟とも少し似ている、とタケヤスは思う。母親は男の子をかわいがる。そして母…

森絵都「銀座か、あるいは新宿か」(『架空の球を追う』収録)文藝春秋

まがりなりにも三十数年を生きてきた今の私たちは知っている。答えはひとつじゃないことを。結婚に生きても仕事に生きても、子供がいてもいなくても、離婚をしてもしなくても、セックスに愛があろうとなかろうと、そんなことは別段、人間の幸せとは関係がな…

生田紗代「魔女の仕事」(『ぬかるみに注意』収録)講談社

似たような話を聞くたびに、友人が恋人に変わるその瞬間をこの目で見たい、といつも思う。さなぎが蝶に生まれ変わるように、そこに劇的な変化はあるのかないのか。 p.109 私は思春期が終わる頃には、自分の母親を理解しようとする努力をやめた。愛しく不可…

生田紗代「カノジョの飴」(『ぬかるみに注意』収録)講談社

「浮かぶ学校なら、なんだかファンタジーだけど、沈む学校なんて笑えない」 「悲劇だよ。悲しすぎる」 p.67 私は、熊の形をしたビンをしっかりと持って、学校と共に、少しづつ沈んでいく井出さんの姿を想像した。お母さんの思いがこもったビンを片手に、彼…

生田紗代「ぬかるみに注意」(『ぬかるみに注意』収録)講談社

なければ楽だろうと常々思っていたのに、実際生理が来なくなってこれほど動揺するとは自分でも思わなかった。 p.12 テーブルの隅には、歴代の女性社員が置いていった古い少女漫画が積まれている。読みかけの『スケバン刑事』を手に取り、食べながら読んだ。…

夏石鈴子『今日もやっぱり処女でした』角川学芸出版

「だから熟女って三十代から上を全部含んでいるから、豊かな海というわけ」 「海なんですか」 「だって、艶子さんはそう言ったんだもの。しょうがないでしょ」 p.144 人物紹介しただけで終わってしまって、これから物語が始まるんじゃないかという印象を受…

野中柊『恋と恋のあいだ』集英社

「悠ならできるよ。どこへでも行ける。きみは、好きなように生きられるひとだよ」 彼の言葉は、悠の耳に悲しく響いた。今は一緒にいられるけど、いつか、僕たちは離れ離れになるんだよ、と告げられたようで。そして、それはその通りなのだろう。おそらく、覚…

恩田陸『ブラザー・サン シスター・ムーン』河出書房新社

記憶って本当に不思議だ。一年、二年、三年、四年と順ぐりに収まっているのではなく、まさに「順不同」で四年間があたしの中でひとまとめになっている。 こうして思い出すのも、断片ばかり。 p.21(「第一部 あいつと私」より) そもそもあまりにも平穏で、…

中島京子『エ/ン/ジ/ン』角川書店

「あっちゃんて、誰なんですか?」 「あっちゃんは、エンジンよ」 p.60〜61 おそらくとくに装飾的なフレーズではなかったのだろう。ある種の時間を言い表そうとすると、そんな言葉になるのかもしれない。人生の、まだ若い時期には、誰にとっても、ご褒美の…

谷崎由依「冬待ち」文藝春秋(『舞い落ちる村』収録)

背の高い木製の書架のあいだにときどき誰かが経っている。森のよう。道標のある道をたどっていくようだ。糸乃は鞄から幾つかのメモ書きを取り出して、本の住所をたずねて歩く。幾つにも分岐する書物の家を横目で見ながら、誰々他著とあるのを一瞬、他者、と…

谷崎由依「舞い落ちる村」文藝春秋(『舞い落ちる村』収録) 

朔は言葉で、わたしは言葉でないものだった。そんなふうに決まってしまうと、わたしはますます喋ることができなくなり、これはいささか不本意ではあった。けれども一方が一方であれば、他方は他方であるものなので、それは仕方のないことだった。わたしはそ…

桐野夏生『女神記(ジョシンキ)』角川書店

ナミマ、一番始末に悪い感情は何か知ってるかい?そうだ、憎しみなのだ。憎しみを持ったが最後、憎しみの熾火が消えるのを待つしか、安寧は訪れない。が、それはいったいいつのことやら。私はイザナキによって、こんな地下の冷たい墓穴に押し込められてしま…

井上荒野『雉猫心中』マガジンハウス

猫の影。それは、わたしにとっては、待つ、ということと結びついている。猫は簡単にいなくなるからだ。野良猫はもちろん、飼い猫であっても、ある日、いつものようにふらりと出かけて、そのまま帰ってこなくなる。わたしは窓から目が離せなくなる。そこに、…

矢野隆『蛇衆』集英社

「生きるための対価であれば、銭でなくてもいい。俺達は人を殺す術を売っている。誰のためでもない。己のために人を殺す。そしてみずから殺めた命を喰らい、生きている」 p.52

奥泉光『神器<上> 軍艦「橿原」殺人事件』新潮社

禍々しき死の影――言葉とはこれである。 p.18 観念では死に親しんでも、それはいまだリアルに俺に迫ってはいなかった。これはつまり、単純に、俺が生きているということだろう。 p.71 やや赤みのかかった蛍光灯の光に満たされた、天井の低い十畳間ほどの矩…

クリス・クラッチャー『ホエール・トーク』青山出版社

小学校で、肌の色の違いは、祖先が大昔にどこからやってきたかの違いにすぎないと知ったとき、こう思った。人種差別主義者ってのはよほどのばかか、劣等感のかたまりで、いつもだれかを見下してないと安心できないやつばっかりなんだ、と。自分にそういいき…

柳広司『虎と月』理論社

けれどぼくは、この旅の前と後で、自分がすっかり変わったことに気づいていた。 ぼくは、父には合えなかったが、父がなぜ虎になったのか(ここまで傍点)その謎を自分で解き明かしたのだ。 それは、ぼくがこれからの人生を生きていくために必要な、自分なり…

木村紅美「風化する女」(『風化する女』文藝春秋 収録)

「年食って一人ぼっちでさびしく死んでいくなんて、ごめんだよね」 p.17 私がいま、突然死んでしまっても、会社での反応は、きっと淡々としたものだろう。ふとそんなことを思った。同時に、それは当たり前すぎるくらい、当たり前のことなんだと気づいた。 …

藤谷治『船に乗れ!1 合奏と協奏』

「未来はある 空を見上げたまま、父はいった。 「それでも、未来はあるんだ」 僕は父を見なかった・ 「そうだろ?」 僕は答えなかった。 p.31 僕は何か、ただ透明な寂しさみたいなものが、胸の中に染み通っていくのを感じた。そのときは言葉にならなかった…

山崎ナオコーラ「お父さん大好き」(『手』文藝春秋収録)

「いたわり」という感覚が全ての人間に備わっているのは不思議だ。 落ち込んでいるときには必ず、周りの人から励まされる。 悩み事など決して相談しないような遠い相手から、急に優しくされるのだ。 さんさんとふりそそぐ日光のように。 p.127 自分のレゾン…

山崎ナオコーラ「わけもなく走りたくなる」(『手』文藝春秋収録)

昔から私は、変わっていない。ときどき、わけもなく走りたくなる。 p.123

山崎ナオコーラ「笑うお姫さま」(『手』文藝春秋収録)

「ひとりの男に『いい女』と思われたら、それで満足した方がいいのかしら」 「そうだろう」 「ふうん」 p.111 女は泣き続けた。「私のライフ・ワークが、『王の前で笑うこと』だけだったなんて、むなしいったら。泣けるわ」。変な人生。 p.113

山崎ナオコーラ「手」(『手』文藝春秋収録)

ストロベリー味は、現実の苺とは似ても似つかないものだが、日本人が共通して持っている「お菓子の苺味」というものの、明るく薄っぺらい風味がして、頭を撫でられている気分になる。 p.21 私にとっては、こういう男は意味があるというか、いて欲しいという…

坂木司『夜の光』新潮社

「昼は他人で、夜は仲間。これってかなりスペシャルな感じがしない?」 p.23「季節外れの光」 じっと眺めていると、自分に向ってぐわっと迫ってくるほどの星空。むっと立ち上る草いきれ。虫の声。仲間の気配。 世界が、くるりと完璧な円を描いた瞬間。今な…

道尾秀介「悪意の顔」(『鬼の跫音』収録)

「それなら、その子をここに入れてしまえばいいじゃない」 p.210

道尾秀介「鈴虫」(『鬼の跫音』収録)

私はね、刑事さん。私はいつも思うんですが、この世は完全犯罪だらけですよ。やったことを他人に気づかれさえしなければ、それは完全犯罪なんです。あなただって、いくつ完全犯罪を犯してきたかわかったもんじゃない。人間なんてね、生きてるだけでみんな犯…