印象的なシーン

小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』文藝春秋

「きっち他のところに特別手を掛けて下さって、それで最後、唇を切り離すのが間に合わなくなったんじゃないだろうか」 「他のところ、って?」 「それはおばあちゃんにも分からないよ。何せ神様がなさることだからね。目か、耳か、喉か、とにかくどこかに、…

辻村深月「雪の降る道」(『ロードムービー』講談社より)

自分の持っているもの全てを、ヒロの前に投げ出した。いつだって、そうだった。みーちゃんの宝物も笑い声も、いつだって彼女本人のためのものではなかった。そうすることで、彼女はヒロから悲しみだけを受け取った、ヒロの悲しみを漠然としか知らなかった彼…

辻村深月「道の先」(『ロードムービー』講談社より)

胸に、目の前のこの子の作り笑いと、笑った一瞬後ですぐ無表情に戻る、さっきの千晶の作り笑いとが同時によぎった。対照的な二つだが、この年頃の少女にとって、一体どっちが年相応の表情なのかはわからなかった。ただ、十四か十五の少女に強いられる作り笑…

辻村深月「ロードムービー」(『ロードムービー』講談社より)

「自分自身が何かされたわけじゃないのに、友達のために泣くんだ。それができるような人が、この中に何人いると思う?」 p.56 「俺、トシちゃんとどこまででも行きたいと思ってた。どんなこともできると思ってた。でもダメだ。俺は行かなくちゃいけない。も…

中島桃果子『蝶番』新潮社

こうして無邪気に虹は主役を奪っていく。今は菓子から。時々ナメから。 理解して欲しくて理解してもらえるから、人は人前で涙を流すんとちゃうんか。 p.60 あたしや菓子が大人になってきたように、虹だって、ナメだって、大人になっていくんや。というか、…

鹿島田真希「嫁入り前」(『女の庭』収録 河出書房新社)

結婚という言葉をイメージする土人形は確かになかったけれども、彼は結婚するのだったら、私の子宮の中の糞を取るという。私は結婚という言葉が受肉した土人形なんだと思った。子宮が空の土人形。それを作るのにはきっと技がいるだろう。なにしろ中が空洞な…

鹿島田真希「女の庭」(『女の庭』収録 河出書房新社)

こうして私は普通の主婦に堕落していった。独身時代に、穏やかだと思って私を魅了した夫は、堕落した主婦を製造する装置だったのだ。 p.16 そして私はまた、井戸端会議に参加するのだ。主婦たちと話していると、私は生きていると実感する。このつまらなさ、…

三崎亜記「蔵守」(『廃墟建築士』収録)

私はなぜ、守り続けるのだろう。 そのことに、疑念を持ってはならない。 それが、私の存在意義でもあるからだ。 疑念は心を乱し、動きを妨げる。 いつ、どんな形で訪れるかも知れぬ「その時」に、一片の迷いもなく自らの職務を遂行するために。私は守り続け…

三崎亜記「廃墟建築士」(『廃墟建築士』収録)

「廃墟とは、人の不完全さを許容し、欠落を充たしてくれる、精神的な面で都市機能を補完する建築物です。都市の成熟とともに、人の心が無意識かつ必然的に求めるようになった、『魂の安らぎ』の空間なのです」 p.61〜61 廃墟が人々を癒すものであるならば、…

三崎亜記「七階闘争」(『廃墟建築士』収録)

「アルファベットや五十音だって、配列はあくまでも便宜的なものでしかないでしょう?階数もそれと同じなんです。一階の上に二階、二階の上に三階って順序に置かれているのは、混乱を来さないように便宜的に定められただけ。現に、世界最初の七階は、地面の…

津村記久子『君は永遠にそいつらより若い』筑摩書房

わたしは二十二歳のいまだ処女だ。しかし処女という言葉にはもはや罵倒としての機能しかないような気もするので、よろしければ童貞の女ということにしておいてほしい。やる気と根気と心意気と色気に欠ける童貞の女ということに、だれでもいいから何か別の言…

山本兼一『利休にたずねよ』PHP研究所

――どうしてあそこまで、茶の湯の道に執着するのか。 p.40(秀吉「おごりをきわめ」) 利休の傲岸不遜のかげには、美の崇高さへのおびえがあったのか。 ――利休殿は、美しいものを怖れていた。 p.56(細川忠興「知るも知らぬも」) 慇懃かと思えば傲慢。繊細…

平田俊子「亀と学問のブルース」(『殴られた話』収録 講談社)

「同姓同名の人に会うのって初めて」 「わたしも」 「わあ。こういう顔をしているんだ」 「こういう顔かあ」 「和美って名前、わたし嫌いなんだよね」 「同じ同じ。わたしも嫌い」 「人に説明するのは簡単だけど、いい名前だねとはいってもらえないよね」 「…

平田俊子「キャミ」(『殴られた話』収録 講談社)

わたしを恋しく思う気持ちが電話をひとこえ鳴らすのだ。カズミ、どうしてる。お前と別れて俺は寂しいよ。時々無性に会いたくなる。お前を強く抱きしめたくなる。でも、俺にそんなことをいう資格はないよな。どこかで偶然会わないものかな。そしたら俺たちも…

平田俊子「殴られた話」(『殴られた話』収録 講談社)

妙な具合に傷ついていた。宇宙にほうり出されたみたいに、自分が誰ともつながっていないと感じた。椎名のことを思った。ひどく遠かった。何十年も昔に死んだ男のようだった。 p.54 じわじわと悔しさの水位が上がっていく。あんな女にどうして殴られなければ…

北山猛邦『踊るジョーカー』東京創元社

「いいか悪いかの問題ではないな。やらなきゃいけない。それが『正しい』ってことだ」 「名探偵は『正しい』?」 「そうとは限らないが……」 人生を懸けたトリックで他人を殺害し、運命を変えようとする人々。探偵はその運命を矯正する力を持つ。それだけに躊…

千早茜『魚神』(いおがみ)集英社

「白亜、恐ろしいのと美しいのは僕の中では同じだよ。雷も嵐も雷魚も赤い血も。そういうものにしか僕の心は震えない。どちからしかないとしたら、それは偽物だ。恐ろしさと美しさを兼ね備えているものにしか価値は無いよ。僕はそう思っている。白亜、顔色が…

ドナ・ジョー・ナポリ『わたしの美しい娘』ポプラ社

このリュートは魅力的だ。ひとりの女が娘のために買い求め、それを娘がその娘に与え、それがそのまた娘に渡る。母がわたしにバイオリンをくれて、それをいつの日かわたしがツェルに与えるのと同じだ。このリュートは一家の歴史をつないでいく。わたしのバイ…

連城三紀彦『造花の蜜』角川春樹事務所

「造花でも本物の蜂を呼び寄せることはできる」 p.126 どんな人間にも、見かけとは違う中身がある。誰もが何らかの嘘をつき、自分を飾っている。 p.273 彼女は、それを本物の花だと言ったが、生きた花に薬品処理をほどこしたミイラのような花が、彼の目に…

原田マハ『おいしい水』岩波書店

光のさなかにいるときは、その場所がどんなに明るいか気づかない。そこから遠ざかってみて初めて、その輝きを悟るのだ。 p.11 「水?」 「そうやねん。あたし、水が湧いてくるねん」 p.33 「あたりまえや。おいしくなんかあらへん」 「結構、おいしい水や…

蜂飼耳『転身』集英社

動きそうで動かない。転がりそうで、転がらない。琉々は、いくつもの眼に見つめられている気がしてきた。マリモには眼はない。藻なのだから。けれども、この丸さとしてここに在るという存在感の奥には、眼が感じられるのだった。なにか、深々とした視線のよ…

津村記久子「地下鉄の叙事詩」(『アレグリアとは仕事はできない』収録 筑摩書房)

何か、保存しておかなければいけないエネルギーを、通勤の作法に使ってしまったような気分になる。 p.137 電車は暴力を乗せて走っている、とミカミはときどき思う。自動車のような、ある種能動的な暴力ではなく、胃の中に釘を溜め込むように怒りを充満させ…

津村記久子「アレグリアとは仕事はできない」(『アレグリアとは仕事はできない』収録 筑摩書房)

こいつにどうにかして思い知らせてやりたい、と考える。人ならば可能だ。人ならば。 p.11 始末に負えないのは、悪意よりも扱いにくい。痛みにまで達するようなアレグリアによる信頼の裏切りへの悲嘆がミノベの中にあることだ。 p.12 ミノベに言わせると、…

宮木あや子「憧憬☆カトマンズ」(『29歳』収録 日本経済新聞出版社)

恋の話は、いつまで経っても出てこない。その代わりに私たちは、上野動物園のパンダに就職したいという話で盛り上がり、いつの間にか終電になる。あのパンダの中には、絶対に人が入っていたはずだ。間違いない。 p.305〜306 「後藤さんそれ可愛いー。どうし…

宇佐美游「雪の夜のビター・ココア」(『29歳』収録 日本経済新聞出版社)

「不倫だからそう見えるんじゃないの」 「違う。大崎さんは何もかも、完璧なのよ」 「不倫だからよ」 p.201 こんなはずでは、とちょっと思う。でも、やはり、人は変わるのだ。目の前のものが現実になり、遠いものはどんどん非現実になる。 p.207

柴崎友香「ハワイに行きたい」(『29歳』収録 日本経済新聞出版社)

「ハワイに行きたい」 p.86

山崎ナオコーラ「私の人生は56億7000万年」(『29歳』収録 日本経済新聞出版社)

「本、本。この先の人生において、恋人がいても本がないのと、本があっても恋人がいないのと、どっちがいい? って聞かれれば、迷わず本のある人生よ」 p.14 誉められたい。人から認められないと、生きている気がしない。 でも周囲から正当に評価されている…

小路幸也『残される者たちへ』小学館

きれいなんだ。本当にきれいなんだ。 トトロみたいな野山じゃなくこんな寂れていく都市の風景が、俺の故郷なんだ。そしてそれを美しいと思うんだ。心からそう思う。 p.13 「あまり悩まなくていいと思うんだ。きっとそれは幸せな印なんだ。みつきがこの先の…

辻村深月『太陽の坐る場所』文藝春秋

「太陽はどこにあっても明るいのよ」 p.11(「プロローグ」) 私、嫌だけどなぁ。一生、自分の本当の居場所はここじゃないって思いながら生きていくのなんか」 p.24(「出席番号二十二番」) あの頃の彼女は冷静だった。 流されなかった。 多分、一度とし…

いしいしんじ『四とそれ以上の国』文藝春秋

海岸を歩いていて、南洋の果物を拾いあげ、影をなせる枝が茂る遠い島に思いを馳せたのは赤く長い鼻の男や祠について詳しかった痩せた民俗学者で、この果物のことを『海上の道』という本に短く書いた。この本は読んだことがあった。また、この流れついた椰子…